九拾四 味噌汁の美学
世界で一番素晴らしいスープは、日本の味噌汁である。
おれは常々、島国根性丸出しで、そう公言している。これほど美味しくて、かつ作り方も簡単というものが、ほかにあるだろうか。
しかも、フィリップ・マーロウがコーヒーをいれる時のように、細々とした作業や手順にこだわる必要なんか全くない。
野菜を煮る。沸騰したら、味噌を溶き入れる。基本的にこれだけだ。これこそ、世界最強のインスタント食品ってものではないだろうか。
今朝の具材は、大根と葱、それに豆腐。
昨日の猪鍋と鋤焼きに使用した具材の残りである。
大根は火が通りにくいので、一番最初に煮る。出汁は、自分の好きなあごだしにした。初めから入れると風味が飛んでしまうので、大根に、ある程度火が通ってからにする。次に葱の白い部分と豆腐。
具材が煮えたらいったん火を止め、葱の青い部分を投入し、味噌を溶き入れる。いったんここで味見をし、味噌の量を加減する。味噌は具材によるけれども、やはり九州産の麦を使った合わせ味噌がいい。
それからまた火を点ける。然し、決してグラグラ煮立ててはいけない。煮立つ直前に火を止めるのだ。味噌の風味が飛んでしまわないように。
あとは、自分の好みや具材によっていろいろバリエーションを変えてみればよいのだ。細かな手順なんてどうでも良い。いや、少しは大事かな?
どうかな、マーロウ? いかにタフなあんたでも、日本人の繊細さには尻尾を巻いただろう。
大学在学中は、家庭教師や居酒屋のバイトをした。たとえ親の仕送りがあったとしても、それを当てにしてばかりもいられなかったからだ。だから、節約のために自炊もした。
味噌汁もおかずも、自分で作る。誰にも教わったわけではない。自己流だから間違っているかもしれない。もちろん、御飯も自分で炊く。御飯だって世界最強のインスタント食品だ。研いで水を入れて、スイッチオンで済むのだから。大学の四年間とその後の3年間、おれはずっとそうやってきたのだ。
清さんが家に来てからと言うもの、さすがに自炊する回数は減った。しかし、今考えてみると、彼女は米さんと酒盛りをやっていたのであろう。帰りが夜遅くなることがあって、その翌朝に起きられないことが度々あった。そのような訳で、朝御飯だけは、結構自分で支度をしているのである。
その日もおれは、朝の6時に起きて、朝餉の支度をしていた。
すると、キンケツが寝惚け眼で、台所にやって来た。
「おい落目、歯ブラシの新しいのはないか。君みたいな閑人と違って、土曜日だろうが何だろうが、これから会社に行かなければならないんだ」
少しムカッと来たが、
「あるけど、直ぐに朝御飯ができるから、食ってからにしろ」
と言った。
キンケツは、ふあーと欠伸をしながら、ダイニングテーブルの椅子に腰掛ける。「ああ、いい匂いだ」
などと、暢気そうに言っている。
「そう言えば、君が香水をつけている夢を見たよ。然し変な夢を見たもんだ。気持ち悪いったら、ありゃしない」
「馬鹿野郎! おれのほうがもっと気持ち悪い」
背中に抱きつかれたことを思い出して、身震いした。
「その前は、化け物の夢を見た。無理矢理に呑まされた挙句に、こんなひどい目に遭うとはね。来るんじゃなかったよ」
「そうだなあ、ホントに……。お前なんて、来なけりゃ良かったのに」
「本当にそう思うか?」
「ああ、そう思うとも」
「そうだろうなあ」
珍しく悄気たような声を出す。
おれは奴の前に、御飯と味噌汁をドンと置くと、
「さあ早く食え。食ったら、さっさと歯を磨いて、とっとと帰ってくれ」
と、言ってやった。