九拾参 三度目の悲鳴
「ば、馬鹿! 何をするんだ」
今度は、バスガールの時のように声をひそめてではなく、大声で怒鳴りつけた。
しかし、相手はどこ吹く風のように、
「あれえ?」
と、素っ頓狂な声を上げる。
「これって、バスローブじゃないか。さっき、女が着ていた――」
「い、いつまで馬鹿なことばかり言ってるんだ。それは、おれのだよ。おれの」
「そうかい?」
キンケツは起き上がって、バスローブに鼻を近付け、くんくんさせている。
「これは、石鹸の匂いだ。待てよ……、石鹸だけじゃない。香水の匂いまでする。それも女物だ」
「貸せよ」
おれは強引にそれを取り上げた。
「何が女物だ。そんなんじゃない、アロマセラピーだ。これを風呂上りに嗅ぐと、気持ちが落ち着いて安眠できるんだよ」
「君……」
向こうは、同情するような表情を浮かべる。
「こんな田舎で一人暮らしなんかするもんだから、変な趣味に走ったりしてるんじゃないだろうな」
「いい加減にしないか。いつまでもつまらないことばかりほざいていると、この家から放り出すぞ」
「ちぇっ、相変わらず乱暴な口を利く奴だな。全然進歩していない」
キンケツはブツブツ言いながら、また自分の布団に戻った。
やっと静かになったと思って、うつらうつらしかけた時だった。
突然、
「京子さーん」
という声とともに、背中に抱きつかれてしまった。
「ウギャー!」
今度は、おれが悲鳴を上げる番だった。
髪の毛が逆立ち、背中がぞくぞくした。
「いきなり何をするんだ、馬鹿! びっくりするじゃないか」
がばっと飛び起きて、相手の肩をひっぱたいた。
キンケツは両腕で顔を防御するような姿勢を取りながら、クックックと肩を震わせている。
散々酔っ払って人に介抱させておきながら、こんな悪ふざけをするとは――。
もう我慢ならぬ。どうしてくれよう。
歯をぎりぎりさせながら見下ろしているうちに、彼が笑っているのではないことに気付いた。
声を忍ばせ、泣いているのだ。
やがてそれは、嗚咽から慟哭に変わった。
おれはどう声を掛けていいのか分からず、ただ黙っていた。やはりサラリーマンというのは、いろいろ辛いことも多いんだろうな、と思った。
いつの間にか影法師も来ていて、懐手のまま、これも黙って見下ろしていた。
キンケツはひとしきり泣くと、ぽつりと言った。
「格好悪いよな、僕って。酔って醜態さらした上に、変な夢を見て大騒ぎしたりして……。このことは、誰にも言わないでくれるか?」
「さて、何のことだか……。おれはもう寝ることにするよ。お前の戯言にいつまでも付き合っているわけにはいかないんでね」
おれはそう言うと、キンケツが寝ていたほうの布団に移って寝た。
向こうも、もうそれ以上騒ぐことはなかった。
影法師も黙って行ってしまった。
乱れ髪も、もう出ることはなかった。




