九拾弐 欽之助、同衾を迫られる
その時である。
「ウギャー!」
ボロ切れを引き裂くような男の悲鳴が、四隣を驚かせた。
襖がガラリと開いて、キンケツが飛び込んでくる。
「手だ、手だ。手の化け物が壺の中から出てきて、僕の首を絞めようとしてきた」
恐怖の余り、両目は一杯に見開かれ、血走っている。
湯浴み乙女は、咄嗟にバスローブを脱いで、裸のまま遁走していた。
やれやれ、空蝉の術を使ったのか。
キンケツに睡眠薬を飲ませようとした彼女の目論見は、辛くも失敗した。
たしかに薬は、飲ませるのは飲ませた。然し、実は直ぐにまた吐いてしまったのである。
今度は噴水状態ではなく、枕元に用意しておいた洗面器の中へだったが。
「どうしたっていうんだ。夢でも見たのか?」
おれは余裕をもって尋ねた。
「いや、決して夢なんかじゃない。――ん? い、今、女が居なかったか?」
「何を馬鹿なことばかり言ってるんだ。夢じゃないなら、まだ酔いが覚めていないんだろう。お前さあ、ひどい呑み方だったぜ」
「そんなにひどかったか?」
いったんは意外そうな顔をしたが、記憶の断片が少しずつ蘇ってきたのだろう。だんだんうなだれていき、仕舞いには頭を抱え込んでしまった。
「やはり夢だったのか……」
彼はそう言うと、一度自分の布団に戻り、枕を抱えてきた。
「おい、落目」
「何だ、そんなものを抱えてきて」
「頼む。一緒に寝てくれ。じゃないと、怖くて眠れないよ」
「えっ? な、何を言うんだ。断る」
「だって、夢でも何でも、怖いものはしようがない。頼む。僕たち、友達じゃないか」
友達だって? おれはこいつのことなんか、今まで一度も友達だなんて思ったことはない。
しかし、普通の人間なら、あれが怖いと言うのは当たり前だろう。これ以上、大声出されたんじゃ、こっちだって迷惑千万だ。
「仕方がない。布団をこちらの部屋に移動しろよ。その代わり、もう大人しく寝てくれ」
向こうはそれでも、
「厭だ! 一緒じゃなきゃ、絶対に厭だ」
と駄々をこねる。
「大学時代に、同じ布団で寝た仲じゃないか。頼む」
彼の言うのは事実だった。文芸サークルの飲み会を上野の西洋軒などでやった時に、当時、池之端仲町にあったおれのアパートに、ハイジンとキョンシー、それにキンケツが、三人がかりで泊ったことが何度かある。
二組しかない布団に、四人で雑魚寝したものだった。当然、キンケツと同じ布団で寝たこともあっただろう。
ハイジンとキョンシーが一緒ならそれも構わないが、一つ屋根の下で、キンケツと二人だけで、しかも同じ布団で寝るなんて、絶対に絶対に御免蒙る。
「つべこべ言わずに、早く布団を持ってこいよ。おれはもう寝るからな」
するとキンケツは、言われたとおり布団を引っ張ってきたかと思うと、おれがしたように襖をぴしゃりと閉めた。
「さっきの化け物、こっちの部屋にまでは出てこないだろうな」
と言う。
「だから夢だって」
おれは反対側を向いてそう言うと、あとは相手にしないことにした。
キンケツは最初のうちこそ、大人しく自分の布団に寝ていたが、突然、
「落目!」
と言って、おれの布団に飛び込んできた。
「やっぱり怖くて眠れないよ」




