九拾壱 夜の怪しい足音
おれは、隣の座敷に自分の布団を敷いて寝た。
キンケツの鼾が余りにもうるさいので、襖をぴしゃりと閉める。
昼間の肉体労働と酒の酔いも手伝って、おれは直ぐに心地よい眠りに陥った。
それから、どれぐらい時間が経っただろう。
何となく胸騒ぎがして、おれはパチリと目を覚ました。
蛍光灯の豆球の明かりだけが、暗い天井をぼんやりと照らしている。
キンケツの寝息に混じって、人目を忍ぶような微かな足音。
隣の6畳間からだ。
影法師か――。
いや違う。影法師なら、音を立てずに歩き回る筈だ。
襖が、すーっと開く。
すらりと伸びた白い脚が、視界の隅に映る。
「欽之助……」
白いバスローブ姿の彼女が囁く。
「ど、どうしたんだ」
驚いておれは声を上げる。
バスガールは、唇に人差し指を当てて、しっと言う。
そう言うや否や、素早くおれの布団をめくって、するりと入ってきた。
「ば、馬鹿。何をするんだ」
おれはすっかり狼狽しながらも、声をひそめて言った。
「いいの、いいの」
彼女もヒソヒソ声。
「この日を待っていたの。欽之助、大好きだよ」
そう言われて喜ばないのは、余程の唐変木だろう。
然し、ここは男らしく、きっぱりと拒絶しなければ。
「き、君の気持ちは嬉しい。でも、一緒に海に行った時にきちんと言ったはずだ。
おれは一生、一人の女性にだけ、純情を捧げることにしているんだから。
だ、だから――」
「それでもいい」
バスガールは、おれの首に甘く手を絡めてくると、顔を近付けてくる。
湯上りのいい匂い……。
「や、やめるんだ。さもないと……き、清さんを呼ぶからな」
男らしく、きっぱりと言った。
彼女はくすくす笑っている。
「何が可笑しい」
「だって、清さんは明日の夕方まで戻らないじゃない」
そうだった。清さんは、この世への滞在期間延長届を閻魔様に出しに行っているのだった。
よし、それならば――。
「隣の部屋に、友人が寝ている。気付かれたらどうするんだ」
バスガールは、またくすくすと笑った。
「さっき、薬を飲ませたでしょう? 実は、眠り薬も混ぜておいたの」
清さんが、湯浴み乙女のことを、とんでもなく性悪な妖怪だと言っていた理由が、迂闊にも今初めておれには分かったのだった。
あやかしと言っても、彼女だって女だ。女に恥をかかせてはいけない。
それに、据え膳食わぬは男の恥とも言うではないか。
しかしそれって、男の身勝手な言い訳では?
でも、京子はやがて人妻だ。人妻にいつまでも想いを寄せるというのは、かえって不道徳というものではないだろうか。
嗚呼――。
おれの心は千々に乱れる。
どうする?
さあ、どうするんだ、欽之助。
人生で最大の危機が、おれに訪れていた――。