六拾参 無精者、漸く動く
これでいいのだろうか。京子、おれは本当にこれでいいのか?
おれの心臓は、外から見ても分かるほどバクバク鼓動していた。
ああしかし、そんなことを京子に問うほうが間違っている。全ては、おれの意気地のなさが原因なのだから。
その夜、久しぶりに乱れ髪が現れた。
「ねえ、抱いて」
女は甘えるように、両手をこちらの首に巻き付けてきた。
おれは待ち構えていたように、ニンニクと唐辛子をすりつぶしたものを、その手に塗り付けてやった。
すると、キャッという悲鳴とともに、何かが天井から落ちてきて、畳の上に転がった。
女の顔だった。
髪を振り乱してはいたが、細面で、透き通るように色の白い美しい女――。
おれは。あえてそうしたのだ。
もう一度、女の顔をこの目にしっかりと焼き付けておきたかった。
実は以前から、あることを試してみようと思っていたのだが、無精者の常でここまで先延ばしにしてきたのである。
然し、それを実行する前に化野が先だ。
先日、契約書を確認した時には、賃貸人は化野不動産になっていた。ということは、このあばら家は化野不動産が所有しているのか?
それに不動産仲介業は仮の姿で、本当はこの世とあの世との仲介を行っているととのことである。言い換えれば、奴こそがおれと死者とを引き合わせたということになる。一体、何のために?
これはもう、直接、化野零児に聞いてみるほかあるまい。
化野不動産は、四谷の於岩稲荷田宮神社の近所にある。外苑東通りを挟んだ反対側の路地に汚いビルが建っていて、その1階に事務所はあった。
すでに化野は、乱れ髪たちとおれを引き合わせているので、このうえお岩さんまで連れてくることもあるまい。
辿り着くと、丁度そのビルから一人の男が出てきて、黒塗りの車に乗るところであった。いかにも大物らしいオーラを発散させている、その後ろ姿が、ある男によく似ていた。京子の父親の中野十一である。
慈民党所属の有力な国会議員であるが、普段は余り表舞台には登場せず、黒幕的役割に徹している。そして彼こそが、彼女と俺との仲を強引に引き裂いた張本人でもあった。
もし、あの中野十一だとすれば、一体何故こんな所に姿を現したのだろうかと、おれは不審に思った。この薄汚いビルの一室に、有力な支援者の会社でもあるのだろうか? いや、ひょっとして化野不動産に用事があって、地上げか何かにでも絡んでいるのだろうか……?
まあ、いいや。おれにはこれからも永遠に関係のない人間だし、今までだってテレビの画面を通してでしか、拝顔の栄に浴したことがないのだから。
化野は、机の上で書類に目を通しているところであった。目を通すと言っても、眉毛の下は例によってつるつるなのに、それで覗き込むようにしながら書類を確認している。いわゆる心眼って奴なんだろう。
おれが中に入ると、
「ああ、あんたですか。どうぞお座んなさい」
と、机の前にある応接椅子を示した。
自分も机の脇を周り、対面に座る。
顔をゴシゴシ擦ると、
「今日はまた、何の用ですか?」
と言って、眉毛の下のつるつるの皮膚の奥から、じっとこちらをうかがうようにしている。
奴がさっきまで座っていた机の上には眼鏡が置かれたままになっていて、そのレンズの中からも、疑わしそうな二つの目がジロジロこちらを見つめていた。