五拾参 影法師に日が当たる
「しかし、呼び出したのが誰なのかは分からない……?」
「そうですよ。でも、何かが私を呼んでいる声が、たしかにこの耳に届いてきたんです。それもひどく切羽詰まった様子で」
「しかし、それが何なのか分からない」
同じような台詞をまたぼんやりと呟きながら、おれは何かを忘れているような気がしていた。
「そう、それが何なのか……」
清さんも、やはり同じような言葉を繰り返す。
「でも、坊ちゃんの仰る乱れ髪なんぞではありませんね。もしそうならば、昨夜お出でになっても良かったじゃありませんか。第一、坊ちゃんの仰るような容貌の女性には、私は皆目心当たりがないのです」
「おかしいなあ。だって、もともとバスガールたちのせいで困っていたのは、乱れ髪のはずなんだ。それなのに、清さんを呼んだのは、彼女ではない――」
「たしかに変ですねえ。でも、それを解決するのが坊ちゃんの役目です」
いや、坊ちゃんの役目と言われてもなあ……。いつ、それがおれの役目になってしまったんだろう。
このお婆さんは、外ではおれのことを先生、先生と、さも偉い者のように吹聴して回って困るんだけれども、こうやって面と向かって、坊ちゃん、坊ちゃんとやたら呼ばれるのも困ったものだ。
待てよ。
おれは、突如思い出した。
清さんが現れた最初の日、さっと奥に引っ込んだ奴のことを。
影法師だ。
奴め、初めのほうこそおれの様子をじっとうかがうようにしていたが、清さんが来てからは、彼女のことばかり物陰からこっそり見ているではないか。今、姿が見えないのは、昨夜、清さんがやった悪霊退散のオマジナイに恐れをなしてしまったからだろう。
いつも家の中を音も立てずにうろつき回って、本当に影のような存在になりきってしまっているから、こちらもすっかり忘れていたのだ。
そう言えば、この家に昔、坊ちゃんがもう一人いた。
安太郎だ。
影法師は、安太郎なのか。
清さんを呼んだのは、影法師ならぬ安太郎だということなんだろうか。
しかし、それなら何故彼女から身を隠すのだろうか。自分で呼んでおいて、それはないだろう。
それに、清さんも何故、安太郎の存在に気づかないのだろう……?
影法師は、ただ物珍しさで清さんのことを見ているとばかり、おれは思っていたのだが。
ここは直球勝負しかない。
「清さん、実はこの家で、いつもあなたのことばかり見ている者があるんです」
「えっ、一体誰なんです、その人は? おお、気味の悪い」
清さんは、自分の両肩を抱いて震えるような仕草をする。
「人間じゃなくて、影法師なんですよ。お気づきじゃありませんか?」
「影法師? いいえ、わたしにはさっぱり――」
真顔で答える。嘘は全く言っていないように見える。
少し光明が差してきたかと思ったら、影は逆に薄くなってしまった。それならばと暗くすれば、闇の中に消えてしまう。
うーん、なんて厄介な奴らばかりなんだ。
おれが頭を掻きむしっていると、
「それでは私は、朝餉の支度がありますので」
と、清さんが澄まして腰を上げる。
清さんも、案外人が悪いや。人に散々難題を振っといて、自分はさっさと逃げていくんだから。