五拾壱 マルタの墓
母親と小母との間にそんな約束が交わされていたとは、清さんには全く思いもよらぬことだった。
――考えてみれば、小母さんはいつも私に優しかった。安太郎さんと私を分け隔てなく、慈しみ育ててくれた。そんな小母さんのことを、あんな風に思ったりしてはいけなかったのだ。
「清、一度だけでいいから、私のことをお母さんと呼んでおくれ。私はお前のことを、本当に安太郎の妹であってくれたら良かったのにと、これまで何度思ってきたことか……」
清さんもとうとう感極まって、泣き出した。
「お母さん……」
二人で抱き合い、そのまましばらく泣き続けたのだった。
こうして、ついに婚姻の日を迎える。
式の日に、安太郎が顔を見せることはとうとうなかった。
清さんの夫は、初枝の保証したとおり立派な人だった。小さなことはひとつも言わず、いつも静かに笑っているような人だった。慎ましく幸せに、二人で暮らしていた。
しかし、そんな生活も長くは続かなかった。
1914年(大正3年)に第一次世界大戦が始まり、日本も日英同盟を大義名分に参戦する。そして、1917年(大正6年)には、イギリス政府の要請を受け、地中海の船舶を護衛するため、艦隊を派遣する。
清さんの夫は、この時派遣された駆逐艦『榊』の乗組員であったが、海上での護衛作戦を終え、基地にしていたマルタ島への帰還中に、オーストリア・ハンガリー海軍の攻撃を受け、戦死してしまったのである。
「だから、私の夫の墓は、今もマルタ島にあります」
と清さんは言った。
バスガールは、さっきからしきりに鼻を啜るようにしていたが、とうとう我慢できなくなったように、えーんと号泣し始めた。涙と鼻水で顔中がぐちゃぐちゃだ。
「まあまあ、この子は……」
清さんが着物の袂からハンカチを取り出し、顔を拭いてやったが、それでもヒックヒックとしゃくり上げている。
おれは、清さんの人生に対して心から同情した。そして、その気持ちを素直に伝えた。しかし、肝心な、清さんがここに戻ってきた理由が分からない。
「さあ、そのことでございます」
清さんがすぐに察して答える。
「それは、何者かが私に助けを求めていたからでございます。それが何者なのか、私にも分かりません。ひょっとしたら、この家そのものが、私を呼んでいたのかもしれません」
「助けを求めていた……?」
「さようでございます。それで私は、てっきりこの子がこの家で悪さをしているものとばかり」
「それで清さんは、乱れ髪に心当たりはないんですか?」
「それがさっぱり……。何でも、両腕を巻き付けてきて、ねえ抱いてですって? おお、いやらしい。それに、細面で、透き通るように色の白い美しい女だっていうじゃありませんか。私のとんと存じ上げない方のようです。それとも、坊ちゃんのお好みのタイプですか?」
「違う、違う」
おれは大いに狼狽しながら、手を激しく振って否定した。
バスガールが、まだ涙目をしたまま、こちらを睨んでくる。