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五百九 二人の毒親

 

「私が昔、何て呼ばれていたか、あんた気にしてたよね?」


「うん」


「あのね」


「うん」

 辛抱強く、その先を待つ。


「やっぱりやめとく」


 ついずっこけてしまった僕は、何だよもう、と言って軽く睨む。

 

「じゃあ、あんたは何て呼ばれてたのよ?」

 とっさに切り返されてしまった。


「僕かい? 僕は普通に磯崎、或いは磯崎君と呼ばれていただけさ。面白くもなんともない。そうだなあ、つとむ、なんて呼び捨てするほど親しくなったような奴もいなかったし」


「あだ名や愛称などで呼ばれることもなかったの?」


「ない」


 ここの帰り際にイソベンめ、と捨て思念を残していった奴が一人だけいるにはいたが……。


「だったら、あんたのママは何て?」

 油断していたら、一気に斬り込んできた。おそらく最初から狙っていたのであろう。


「ママって、ひょっとして母のこと?」

 さっきの寝言のことがあるので、とぼけて聞き返した。


 彼女はこくんと頷く。


「いやあ、どうだったかなあ……」

 そう言いながら、チラッと横目で彼女を見ると、目をキラキラさせている。 


 何故だか憎しみのような感情が湧いてきた。もちろん彼女に対してではない。


「だから、さっきも言ったじゃないか」

 怒りに任せて言った。強がりも幾分あったのかもしれない。

「あんな奴、いないも同然だった。逆を言えば、向こうにとっても僕はいないも同然だったんだよ。だから、何とも呼ばれてないさ。僕は何者でもなかったんだから」


「可哀想に──」

 という声がしたと思ったら、いきなり僕は抱きすくめられていた。


「あんたもずいぶん苦しんだのね、可哀想に。ねえ、私をママと呼んでもいいのよ。私に甘えてもいいし、泣いてもいい。私がこれから、あんたのママになってあげる」


 そう言いながら、息もできないぐらいぐいぐい抱きしめてくる。


 何とも言えないいい香りがするのは、バスローブからなのか、彼女の身体からなのか?


 バスローブの心地よい肌触りと感触。そして、その内側にそっと感じられる弾力性。


 ああ、このまま死んでもいい。いや、死ぬのは嫌だ。このまま眠りたい……。


 すると彼女は、少し身体を離して僕の髪を撫ではじめた。一心にこちらを見つめる瞳が左右に揺れる。


「ねえ、あんた。私がどんなにあんたに感謝しているか分かる?」


 バスローブの隙間から胸の谷間が見える。心臓がドックン、ドックンと高鳴ってくる。奇麗な水に月宿る。僕の心は濁りに濁っている。


 ああ、これでは眠るどころではない。最後に心臓が爆発して、本当に死んでしまいそうだ。


「ねえ、私が昔何て呼ばれていたか、教えてあげるね」


 僕はもう息も絶え絶えに、こくんこくんと頷くので精一杯だった。


「笑わない?」


「うん」

 また、こくんこくんと頷く。


「本当に?」


 こくん、こくん。


「〈小水娘おみずむすめ〉なんて呼ばれていたのよ。あんまりじゃない?」


 思わずくすっと笑って聞いた。

「何、それ?」


 助かった!


 彼女は少し僕を睨んでから答えた。


「それはね、私が〈水かけ女〉※の娘だから。おかげで私は、あんな毒親のもとで井戸の中で育ち、外の広い世界を知らずに育った。つまり、井の中のかわずだったの」

 そこまで言うと、もう涙ぐんでいた。


「そして最も嫌だったのが、身体をきれいにしたくても、井戸端で行水するしかないことだった。私は年頃の女の子なのよ。どうして母みたいに片肌脱いで、釣瓶桶つるべおけで汲み上げた水をかけなくちゃならないの? あんまりだわ」


 唇を震わせながら、小さな声でもう一度、あんまりだという言葉を繰り返した。


「もう大丈夫」

 と僕は言った。

「ここのお風呂はいくらでも気が済むまで使っていいんだから。それに、君は既に親元を離れているばかりか、大海に出て縦横無尽に泳いでいるじゃないか。大空を鳥が自由に羽ばたくようにね。だから、決して井の中の蛙なんかではない」


 そうだ、この子は自由に舞い泳いでいるマーメイドなんだ。だから、決してポジティブリストなんかで縛っては不可いけない。


「ありがとう」

 彼女は涙を拭うと、ニッコリと笑った。こうして見ると、本当にきれいな子だ。


 僕の人魚姫。マーメイド……。


 そうだ、この子のことをこれからマーミーと呼ぶことにしよう。ママなんかではなく、マーメイドのマーミーと。


 そして、僕には一つ気付いたことがあった。マーミーは僕のことをあんた、あんたと呼ぶ。


 前から感じていた。あんたって何て甘くて、耳に心地よい響きだろうと。


 そして、不思議に思っていた。何故彼女からそう呼ばれるたびに、心が震え、身体がとろけそうになるのだろうかと。


 今日、その秘密が解けた。母も僕のことをそう呼んでいたのだった。



※ 〈水かけ女〉については、「四拾壱 水かけ女、登場」、「百弐拾参 欽之助、変態となる」、「百弐拾四 エアハグ&エアキス&エアグッバイ」、「百弐拾五 アカオトシの流儀」を参照していただけると嬉しいです。

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