五百七 夢はるか、子守唄
「ははーん」
彼女の目が意地悪そうにキラリと光る。
「さてはあんた、妬いてんのね」
「何を言ってるんだ。くだらない」
とっさにそう言い返したものの、直ぐに後悔した。
すると彼女は、急に椅子から立ち上がった。
「そうよね。だって私は妖怪なんだもの。どう、尻尾が九つあるのがちゃんと見える?」
そう言うとくるりと背中を向け、お尻を振ってみせる。
いつの間にか僕には、彼女がもう全身白ずくめでなくても見えるようになっていた。その時の彼女は、白いブラウスに水色のベスト。
スカートはブルーで、膝の辺りまでが細く締まっていて、裾だけが少し広がっているようなデザインのものだった。
以前、丈が短過ぎるということを注意したところ、このスカートに変わったのだが、これはこれでヒップのラインが強調されているような気がしたものだから、思わず目を逸らして言った。
「それは心外だ。君のことをそんなふうには見てないから」
そう言いながら思った。そんなふうには見てないって、いったいどんなふうに……? 思わず目を逸らしてしまったことを、実は後悔していた。
「でも、あなたは私のことを狐だと言った。それも人を化かす悪い狐だと……」
ハッとして視線を戻すと、向こうはこちらに向き直り、一心にこちらを見つめていた。涙が溢れ出し、頬を濡らしている。
あわてて僕は言った。
「いや、最初は用心してついそんなことを言ってしまったけど……。そうか、そのことをまだ気にしてたんだね。ごめん、僕が悪かった。その時は君のことをよく知らなかったものだから。でも、今は君のことをこう思っているんだ。ええっと、その──」
「使用人でしょう? それもただ働きのね」
今度は彼女のほうが食い下がってくる。
「違う、違う」
首をぶんぶん回して否定する。
「この際だから正直に言っておこう。確かに、給料を払わなくて済むというのは、僕にとってこんな都合の良い話はなかった。それほどここの経営が行き詰まっていたから。
でも仕事を手伝ってもらっているうちに、君に対する見方が変わっていったんだ。よく気が利くし、仕事はてきぱきとやってくれるし、どれだけ助けられてきたことか。だから今では君のことを、ここを経営していくうえで、なくてはならないパートナーだとさえ思っている」
「だから、事務所のパートナーなんでしょう?」
「うん、そうとも。事務所のパートナー」
何となく釈然としないままそう答える。
「あくまでもビジネス上の関係。あなたはただで事務員を雇えるし、私はお風呂を自由に使わせてもらえる。ギブアンドテイク。それ以上の何ものでもない。そうよね?」
「まあ、確かに……」
「だったら私のことは、事務員さんとでも呼べば?」
「ハハハ、それはちょっと他人行儀だな」
僕は呑気に笑いながら言った。そう言ったものの、〈人〉の1文字に少し引っかかっていた。
すると彼女は、さっとそばまでやってきた。僕の事務机に両手をつき、顔をくっつけんばかりにして言う。
「じゃあ、他人じゃないとでも言うの?」
「いや、他人ではあるんだけども……」
「そう、他人だよね」
「法律上は、自分以外は基本的には他人なんだ。たとえ家族の人間でもね」
「そっか。私たちは、その家族でさえないものね」
「まあ、そうなんだが……」
僕は家族の温もりを知らない。そしてこれからも……。
「ああ、もう! 何だか気分がくさくさする。シャワーでも浴びようっと。──覗いたりしたら承知しないからね」
ぷりぷり言いながら、その場から姿を消してしまった。
せっかくパートナーとして扱ってやろうというのに、いったい一人で何を怒ってんだか。今まで一度たりとも覗いたりしたことなんてないのに、何故あんなことをわざとのように言うんだろう
まあ、何だっていいや。こっちだって忙しいんだ。あんなのにまともに構っていられるか。
こっちもぷりぷりしながら仕事を続けた。
すると、いつものように浴室からシャワーの音。続いて石鹸やシャンプーを使うような微かな物音とともに、うっとりするようないい香りが漂ってくる……。
真っ暗闇の中で目が覚めると、母が子守唄を歌っていた。
ねんねんころりよ、おころりよ……。
添い寝していた母が、軽く拍子を取るように僕の胸を叩いていている。
パパはどこ、と僕は尋ねる。
何度もうるさいね、この子は。遠い所だよ。母が答える。
いつ帰ってくるの?
今にね。
煩わしそうにそう答えた母が、再び子守唄を始める。
ぼうやは良い子だ、ねんねしな
ぼうやのおやじはどこへ行った
あの山越えて、さとへ行った……
母が適当に作った替歌だ。
僕は尋ねる。〈さと〉ってどこ?
生まれた所さ。最後はみんなそこへ帰って行くんだ。
ママも?
そうだよ。ママだけじゃない。あんたもだ。だから、いつかはまた、みんなで逢える。
パパがここに帰ってくるんじゃなかった?
うるさいね、この子は本当に。今に帰ってくるんだよ。そして最後はみんなで一緒に、さとに行くんだ。分かったかい?
それから僕の返事を待たずに、変な子守唄を再び始めるのだった。
黙って聞いていたら、今度は彼女のほうから、寂しいかいと尋ねてきた。
ううん、寂しかなんかないよ。だってママがいるんだから、と僕は答える。
すると彼女は、ギュッと僕を抱きしめて言った。今日まではママと呼ばせてあげる。だから、うんと甘えてもいいからね。本当に今日までだよ。
そしてまた子守唄が始まる。母のいい匂いに包まれ、だんだんと眠りに落ちていく中で、僕は確かに聞いたのだった。母のすすり泣く声を……。




