五百六 まんまと籠絡される
「そ、そうなんだね。まあ、確かに君のことはちゃんと見えているんだけども……」
僕はふにゃふにゃ、そうつぶやいただけで、あとはどう言えばいいのか言葉が見つからなかった。
ふと気づくと、まだ彼女の肩に手を置いたままである。はっとして手を放したが、彼女は僕から目を逸らさない。
「じゃあ、僕はこれで帰るから」
どぎまぎしながらそう言うのがやっとだった。くるりと彼女に背中を向けると、帰り支度をするために室内に戻った。
机の上に散らかっている裁判のための資料を、リュックに片っ端から詰め込んでゆく。入りこなさなかったものは風呂敷に包む。
当然個人情報も多く含まれているが、電車ではなくタクシーだし、酒を飲んでもいないから、どこかに置き忘れることもないだろう。
それにしても余計な出費である。いや、そんなことよりも往復の時間がもったいない。やれやれ、いったい僕は何をしているのか。それでなくても裁判の日が近づいていて焦っているというのに……。
「ねえ」
さっきから黙ってこちらのすることを見守っていた彼女が口を開いた。
「仕事が溜まっていて大変なんじゃない? ここに泊まって続きをやれば?」
自分の家みたいなことを言う。
「それは不可いな」
リュックを背負いながら僕は答えた。
「よく知りもしない男と一夜を過ごすなんて、決していいことではない。それに君は、これからシャワーでも浴びるんだろう? 僕と二人っきりで怖くないのか?」
相手はそれを聞くなり、ぷっと吹き出した。呆れたように一度そっぽを向いたが、ついに我慢しきれなくなったように、本当に腹を抱えて笑いだした。
「ああ、可笑しい。あんたってホント可愛いわね」
そう言いながらも、最後は涙を流してまで苦しそうに笑っている。
「何が可笑しい」
若干気分を害しながらそう言うと、彼女は答えた。
「だって私は、あんたたちの言う妖怪だよ。人間の男なんて何が怖いもんか。これでも妖力を使えるし、もしシャワーを浴びている私に手出しをしようとするものなら、湯船だと偽って肥溜めに頭から放り込んでやるわ」
「肥溜めだって?」
目を白黒させている自分の間抜けな面が見えるような気がした。
「肥溜めが無いのなら、汚水桝でも浄化槽でも何でもいいわよ。──もっともあんたには浄化槽の必要はなさそうだけどね」
何だか褒められているのか、なめられているのか、さっぱり分からない。
否、やっぱりなめられているのに違いない。しかし、ここは我慢だ。彼女がそう言ってくれるのをこれ幸いとばかりに、泊まり込みで仕事を続けることにした。
それからは不思議に仕事がはかどった。浴室から漂ってくるシャンプーやシャボンの匂い、或いはその物音。そして時折聞こえてくる彼女の鼻歌。それらが僕の脳髄に心地よい刺激をもたらしているに違いない。
しばらくして静かになったと思ったら、
「ああ、いい湯だった」
と、加トちゃんのように言う声が漏れてくる。
続いて、
「ねえ、あんたも入ったら。疲れが取れるし、眠気も覚めるわよ。お風呂が冷めないうちにどうぞ」
という声が聞こえてきた。
いやいや、まだ裸同然じゃないのか? 危ない、危ない。無視を決め込み、仕事に集中した。
それにしても、僕のことをあんただと? ああ、でも、あんたって何て甘くて、耳に心地よい響きだろう。彼女からそう呼ばれるたびに、心が震え、身体がとろけそうになる……。
気がついたら、机に突っ伏して寝ていた。はっとして頭を起こしたら、背中に掛けられていた毛布がずり落ちた。寝ぼけ眼でキョロキョロ周りを見回す。すると、事務員の机に書類を広げ、パソコンのキーボードを叩いている彼女の姿が見えた。
「君、だめだよ!」
あわてて声を上げた。
「大切な書類なんだ。ここでお風呂を使ってもいいとは言ったが、事務室のものまで勝手に触っていいとまでは言ってないぞ」
「大丈夫よ。現在進行中のものには、一切手を触れていないから」
パソコンの画面から目を離さないまま言う。着替えたのであろう、別の白い服に、青いシックなカーディガンを羽織っていた。
「それよりあんた」
今度は振り返って、通帳らしきものを掲げて見せる。
「あっ、駄目だよ。そんなものまで触っちゃあ」
慌てて彼女のそばまで行き、通帳を奪った。
「いいから見て」
彼女はお構いなしにパソコンの画面を示す。どうやらエクセルで作った表のようである。
「あんたがこれまで手掛けた仕事と掛かった経費、それに成功報酬などを時系列に整理してみたんだけどね、あんた、ちょろまかされてるわよ」
「えっ?」
慌てて画面を見る。
「ほら、ここ」
彼女が指さしている箇所を、目を皿のようにして見る。すぐには分からない。通帳や伝票類と何度も見比べてみる。
確かにおかしい。すぐには気づかれないように、巧妙に誤魔化している。どうやら、やめた事務員の仕業のようである。
「いやあ、やられちまったなあ」
頭を掻いていると、彼女が言った。
「やられちまったって、それでいいの? あんた、これから他の弁護士さんも雇って、世間を賑わせるような大きな事件なんかにも取り組んでいきたいんでしょう?」
「うん、まあそうなんだけど……」
「だったら、お金の管理はもっとシビアにやらなけりゃね」
こうして僕は、彼女を正式に事務員として採用することにしたのだった。そしてそれは、大正解であった。
彼女には給料を払う必要がなく、ただ浴室を自由に使わせてあげさえすればよかったからである。もっとも、朝も昼もふんだんに湯を使うので光熱費が馬鹿にならなかったが、給料を普通に払うのに比べれば微々たるものである。
しかし、もっと重要なことがある。彼女は気が利くうえに、頭の回転も早いので、事務員として実に優秀だった。現に、彼女が機転を利かせてくれたおかげで、危ういところを助けられた場面も何度かあったのである。
ある夜、僕は例によって遅くまで仕事に追いまくられていた。彼女も不平一つ言わず手伝ってくれている。
「ねえ、君」
一息つくと、パソコンの画面に向かっている彼女の横顔に呼びかけた。
「今頃になってこんなことを言うのも申し訳ないんだが、君の名前をまだ聞いてなかったね」
彼女はこちらには目もくれず言った。
「名前なんてどうだっていいじゃないの」
「しかし、僕は君のことを今では事務員としてではなく、この事務所のパートナーだとさえ思っている。だから、いつまでも君呼ばわりではまずいと思うんだ」
「事務所のパートナーねえ」
心なしか不機嫌そうに言う。
「じゃあ、それにふさわしい名前を、あんたが考えたらいいんだわ。相手の呼び方なんて、お互いの関係性で自然に決まるものなんでしょう?」
僕は食い下がった。
「それなら、過去の関係性の中では何て呼ばれていたんだろう?」
彼女がここに来た時に、前の男には自分のことが見えていなかったと言ったことを、僕は秘かに気にしていたのだった。




