五百五 妖怪を好きになった男
夏も過ぎ、秋もかなり深まった頃だった。あれから僕は、ありとあらゆる仕事を引き受け、寝食も忘れるほど仕事に打ち込んでいた。
そうすることで弁護士としての実績を上げ、世の中に認められていけば、いつかは先生のお役に立てることもあるだろうと信じて。
だからどんなに困難な仕事でも、或いはどんなに実入りの少ない仕事でも、それでキャリアアップが図れるのであればと、誠心誠意取り組んでいたのである。
将来的には何人かの弁護士を抱えた大きな法律事務所にしたいという希望は持っていたが、まだ時期尚早だと考え、女性の事務員を一人雇っただけで何とか切り盛りしていた。
ところが、その事務員が突然やめてしまった。彼女はそこそこ仕事ができるうえに、なかなかきれいな女でもあった。
ところが、散々僕に気があるような素振りを見せていたくせに、たまたま顧客の一人であった新進気鋭の若手経営者から言い寄られると、あっさりとそちらに乗り換え、結婚してしまった。
彼女のことはどうでもよかったが、代わりがなかなか見つからないのには弱った。
ただでさえ複数の訴訟案件を同時に抱え込んで大変だった上にそのような事情も加わり、僕は例によって事務所に泊まり込み、徹夜で作業を行っていたのである。
そんな時に、あの女が再びやってきた。あの女と言っていいのか分からないが、ともかくも女の姿をしているので、そう呼ぶしかない。
彼女はこの前と同じような白いワンピースを着ていたが、デザインが少し違っていて、隅の方に可憐な赤い花柄が目立たないように描かれていた。
ワンピースの色に合わせていた白い帽子には、赤いリボンが巻かれていた。昔のアメリカ映画か何かで見たことがあるようなレトロなシルエットが、彼女の小さな顔によく似合っていた。
しかし、おしゃれをしているのに反して、何故だかひどく疲れ切った様子をしている。
「こんな夜更けに突然お邪魔して、あの……何と申し上げてよろしいのか……。本当に申し訳ございません」
ドアを開けた僕に、彼女はそう遠慮がちに言うと、丁寧に頭を下げた。
前回の訪問時に、初対面の印象とその直ぐあとの態度の落差を思い知らされていたので、ドアノブを持ったまま言ってやった。
「そんなふうに殊勝そうに見せかけたって、もう通用しないからな。本当にこんな時間に迷惑千万な話だよ。僕はここで遊んでるんじゃないんだ。帰ってくれないかな」
そんな言い方になったのも、なまじ彼女のせいばかりでもなかった。どうにも裁判まで仕事が片付きそうもなく、半分パニックにもなっていたのである。
女は根気よく言った。
「あの……、もしよろしかったらお手伝いいたしましょうか。自分で言うのも厚かましいようですが、事務仕事はわりと得意だし、これでも気が回るほうなんです。何かとお役に立てると存じますが……。それに報酬なんて要りません。ただ、こちらのお風呂を使わせてさえいただければ──」
「何を言ってんだか。確かに今は猫の手も借りたいほど忙しいんだがね、狐の手まで借りたいとは思わないから」
そう言い放ってやった。
「狐ですって?」
彼女の目が釣り上がる。
「そうとも。そう言って何が悪い。僕はね、ほかの人間とは違うんだ。とっくに化けの皮が剥がれているんだから、観念するんだな。いいかい、君は人を化かす狐なんだ。いや、狐よりもたちが悪いかも」
「ひどい……」
僕を睨んでいる。そのうち両目から、涙が溢れ出してきた。
「確かに私の母は女狐と言われている。でも私は違う。あんな女とは一緒にしないで」
あの時のように、あばずれのような言葉で言い返されるとばかり思い込んでいたので、すっり面食らってしまった。それに彼女の涙……。
母を含め、すぐ間近で女の涙なんて見たことがなかったものだから、どうしていいか分からなかった。それに、この子はそんなにたちが悪い妖怪でもないような気がする。
急いでとりなすように言った。
「あ、いや………ゴメン、つい言い過ぎてしまったようだ。つい気が立っていたものだから。ただ、はっきり言わせてもらうけど、ここで君を雇うなんてことはできない。悪いけど」
「もういい!」
彼女は小さな旅行鞄を肩に掛けると、雑居ビルの電灯の消えた廊下をぱっと駆け出そうとした。
「あっ、待って」
急いでその肩を捕まえる。
いくら妖怪だからって、こんな真夜中に若い女の子を放り出していいはずがない。仕事は風呂敷で持ち帰ってでもやれる。もう電車もないからタクシー代がかさむことになるが、仕方がない。
「僕はもう帰ることにするけど、よかったらここに泊まりなさい。風呂も自由に使っていいから。その代わり、一晩だけだぞ。いいね?」
「本当に?」
彼女の顔がみるみる輝きはじめる。
「本当に本当なのね?」
「ああ、いいとも。ただし、その前に一つだけ君に教えてほしい」
「何?」
「この前君が来た時も、僕は君をかなり邪険に扱ってしまった。それなのに、どうしてまたここにやって来たんだろう」
「それはね」
彼女は僕の目をしっかり見ながら答えた。
「前の男には、私のことなんて何一つ見えていなかった。それなのに、あなたには私がちゃんと見えていた。そのことを思い出して、もう一度確かめてみたくなったからなの」
僕を見つめる彼女の瞳が左右に揺れ、涙が再び溢れ出してきた。
その時から、僕はすっかり彼女にメロメロになってしまったのだった。