五百四 第三の馬鹿、現る
その男は事務所のドアを開けると、奥にいる僕に向かってペコリと頭を下げた。いかにも気の利かない田舎者のように室内を見回す。
どうやら、彼女のことは全く視界に入ってないようである。それもそのはずだ。彼女は人間ではないのだから。
男は、何かのことで切羽詰まったような表情をしていた。仕事の依頼に違いない。
「ようこそいらっしゃいました」
僕は愛想よく立ち上がると、彼女のことは無視して、男を応接椅子のほうに誘った。
男は促されるまま歩を進めると、のっそりとそこに腰を下ろした。
僕は取っておきのコーヒーを二つ淹れ、テーブルに置いた。しかし、男はそれには目もくれず、落ち着かない素振りで室内を見回している。
やがて男の視線は、例の彼女に向けてピタリと止まった。一瞬、おやと思った。女のほうも興味深そうに腕組みをし、ジロジロと彼を見つめている。
しかし、男は直ぐに僕のほうに向き直った。やはり、女には何も気づいてないようである。
次にチラッとコーヒーを見たが、手をつけようとさえしない。
僕は構わず自分のコーヒーカップを口につけながら、それとなく男の様子を窺った。ひどい 身なりをしているわけではないが、金がありそうには見えない。
もしかしたら、着手金さえ払えないのではと不安になりながら、
「それで、今日はどういったご要件でいらしたのでしょうか?」
と一応尋ねてみた。
すると男は、持参した封筒から何やら紙切れを取り出したかと思ったら、瑕疵条項が公序良俗違反だの、生涯特約が奴隷契約に等しいだの、いきなり早口でまくし立てはじめた。何を言いたいのかさっぱり要領を得ない。
「まあ、お持ちなさい」
男を落ち着かせるように言った。
「少しずつ分けてお話を聞かせていただけませんか? まず瑕疵条項とは具体的にどんな内容なんでしょうか?」
「あっ、申し訳ありません」
男はまたペコリと頭を下げる。ここまではまあ礼儀正しかったと言えるだろう。
それから、せっかちにコーヒーカップを手にすると、口元に運んだ。ところが、ズズッと音をさせたとたん、カップをテーブルに落とした。
「うわっ! 熱っ! 苦っ! 不味っ!」
促音便とビックリマークの四連発だ。
カップは無事だったが、ソーサーが四つに割れた。百均ので良かった。やはりノリタケのものは、相手を見て出すに限る。
すると彼女がさっとやって来た。どこでどうやって見つけたのかボールに全てを片付け、手早く雑巾で拭いた。
男は唇を押さえ顔を顰めているので、カップやソーサーの破片が宙を浮いて片付いていくのにも気づかないようである。
よほど鈍感な奴なんだろう、しばらくしてようやく、あっ、失礼しました、と頭を下げる。だが、もう遅い。こちらにも、しぶきがたっぷりかかったのだから。
ハンカチでズボンを拭きながら、実に無礼極まりない奴だと、つくづく思った。
「格好なんかつけずに、砂糖とミルクを入れるべきでした」
憤然としている僕に変な弁解をすると、
「実は……」と話しはじめた。
その内容を聞いて驚いた。夜中に畳から腕が伸びてきたり、生首が天井から落ちたりするというのである。
ハッとして、男がテーブルに置いていた紙面をあわてて手に取った。コーヒーのしみを気にしながら、さっと目を通す。
何と、その契約書の一方の当事者として書かれてあったのは、あの化野であるとともに、対象物件として記されていたのは、例の屋敷だったのである。
彼女も、僕のすぐそばに頬をくっつけんばかりにして勝手に読んでいる。それから、パッと男の真横に飛び移ると、嬉しそうにその片腕にしがみついた。
化野は言った。そのうち向こうからフラリと現れるはずだと。では、この男が第三の馬鹿だというのか?
彼女は目を輝かせて、こちらに目配せする。こうして改めて見てみると、少し小悪魔的ではあるが美しい顔立ちをしている。しかし、決して係わっては不可い種族だ。少し悔しいが、追い払うには絶好の機会である。
僕は男に宣言するように告げた。
「これは私が立ち入っては不可い案件です。残念ですが、あなたのご依頼には応じられません」
「えっ、でも……」
男は間抜けな顔で何か言いたそうにしている。
そこでピシャリと言ってやった。
「まだ分からないんですか? あなたはこの化野に嵌められたんですよ、こいつが不動産仲介業っていうのは真っ赤な嘘で、本当はこの世とあの世との仲介を行っているんです」
「だからこそ困り果てて、ここに来たんじゃないですか。このまま手ぶらで帰れと?」
生意気に言い返してきた。
「だから、さっきこそ言ったばかりじゃないですか」
あえてきつい言い方を、もう一度した。こんな男は、冷たく突き放してやるしかない。
「いいですか? これは法律家としての私の仕事ではありません。実は先ほど別の方が相談にいらしたんですがね、この世界の方ではなかったのでお断りしたばかりなんですよ。その方が、今あなたの手をしっかりと握っています。どうぞ、手に手を取り合ってお帰りください」
男は、あわてて左右を振り向き、驚いたような顔をした。そしてほとんど同時に、男の思念がこちらの脳みその中に響いてきた。
──何も見えないし、何も感じない。このおれにさえ見えていないものが、このいけ好かない、気障ったらしいメガネ男には見えているというのか? ひょっとしたら、ものすごい能力の持ち主なのでは?
僕も即座に思念で言い返した。皮肉たっぷりに。
──ふん、こんな能力など何の役にも立ちませんよ。私は弁護士ですから、あくまでも法律に従って行動するのみです。
それより、あなたこそ特殊能力をお持ちのようだ。おそらく、まだ自覚はされてないのでしょう。何かを引き寄せる能力にね。
男は腹を立てたように立ち上がった。女が腕にぶら下がっているのにも気づかずに、勢いよくドアを締めて立ち去った。
捨て台詞ならぬ捨て思念を残して。
──イソベンめ!