五百参 突然の訪問者
「それで化野は帰っていったよ。いやあ、実に面白い男だった」
先生は僕を見て笑いながら、そう言った。
「あの屋敷の件はどうなさるんですか?」
と僕は尋ねた。
「うん、彼を信用して頼むことにした。実はね、夕べは久し振りにぐっすり眠ることができたんだ。もうかれこれ一ヶ月ぶりだよ。もちろん例の化け物たちが、夢に出ることもなかった。それで私は確信したんだ。もう金輪際、奴らに会うことはないだろうとね」
晴れ晴れとした顔で言う。
それから直ぐに気づいたように言い添えた。
「そうだ、君には済まないことをしたね」
「いえそんな……。こちらこそ先生のご期待に添えず、本当に申し訳なく思っております。ご恩返しができるチャンスだと張り切っていたのに……」
「いやいや、恩返しなんてどうでもいいから。だが、君にはこれからも仕事を依頼することがあると思う。政治家なんて本当に阿漕な商売でね、いつどんなことで捕まるか分かったもんじゃないんだから。そのときは、よろしく頼む」
先生はそう言っていたずらっぽく笑うと、僕の肩をポンポンと叩いてくれたのだった。
それからしばらくして、あの子はやってきた。ふらりと僕の事務所に立ち現れると、まずは礼儀正しく白い帽子を取って、笑顔で会釈をする。
目鼻立ちがはっきりしていて、髪は清潔そうに短くカットされていた。帽子と同じ白いワンピースを身に着け、青いパンプスを履いていた。
何となく海をイメージしてしまった。海という文字には、母がある。そう、彼女は母に似ていた。
「今日は仕事のご依頼でしょうか?」
ドギマギしながら聞くと、彼女は唐突に言った。
「あんたさあ、ちょっとした能力を使って商売してるようだけど、私が手伝ってあげようか?」
その瞬間、僕には彼女の正体が分かった。彼女は人間ではなかったのである。自分の生い立ちのせいか、僕は子供の時分からそういうものたちが見えるようになっていた。だが、そのことを忌まわしいと思うことはあっても、能力だなんて思ったことは一度もない。
すっかり落胆しながら、僕は言った。
「さあ、何のことだか……」
「空とぼけたって駄目だよ」
彼女は、さっきとは打って変わって意地悪そうな笑みを浮かべながら言った。あばずれのような喋り方をするのも、母に似ていた。
「私には、ちゃんとお見通しなんだから。あんたが商売の相手にしているのは、異界の者たちとの間でトラブルを抱えている人間たちなんでしょう? ちゃっかり自分が仲介者になって、稼ごうとしているんだわ。でも、それを責めてるわけじゃないの。だって、弁護士じゃ食えないんだもの。仕方がないわ。ところが思ってもみなかったことに、あんたの前に強力な商売敵が立ち塞がった。違う?」
やれやれ、どこをどう間違えたら、こんなストーリーができあがるのか? ほんの一部は合っているかもしれないが、ほとんどが嘘だらけだ。しかも、全体を通して言おうとしていることは、悪意と侮蔑に満ちている。最もたちが悪いことは、当人?がそれを信じているらしいことである。
どうやって追い返してやろうか考えていたら、向こうはいよいよ嵩にかかって言ってきた。
「じゃーん、そこでこの私が登場ってわけ。あんたも気づいたとおり、私なら多少の妖力を使えるし、あんたを助けてあげられる。
見返りは、あんたんとこのお風呂を使わせてくれるだけでいいわよ。ほかに報酬なんて何にも要らないから」
確かに僕の弁護士事務所には、トイレとは別に、ちょっとした浴室がある。一人で切り盛りしているから、忙しい時は帰宅せずに、徹夜してでも片付けることが頻繁にあった。
潔癖症の僕は、翌朝そのままで顧客と会ったりすることはできなかったからだ。彼女はそのことを知っていたらしい。
だが、僕は最初からそんな商売はする気はなかったし、例の件は先生の依頼だったから引き受けただけで、まさかあんなものたちと関わり合うなんて思ってもみなかったことである。
化野はいやな奴ではあるが、商売敵どころか、彼が途中からこの仕事をかっさらっていってくれたことは、こちらにとってはもっけの幸いだったのである。
僕は正直に彼女に告げた。
「有難い申し出だが、お断りするよ。今度のことで、僕は相当怖い思いをした。本来、僕のような人間が立ち入るような分野ではなかったんだ。悪いけど、お引き取り願えるかな?」
「でも……」
意外にも、彼女は気弱にうろたえるような表情を見せた。それどころか、両目に涙さえ浮かべそうになっている。
この子は、本当に風呂に入れなくて困っているのであろう。可哀想だが仕方がない。僕はこんなものたちと関わっては不可いのだから。
そんな時に、第二の訪問者が現れたのだった。