五百弐 第三の馬鹿
「なるほど。では国会議事堂から依頼があったら、もう少しまともな人間を私が仲介してあげましょう」
化野はそう言ってニヤリと笑った。
「おいおい、この私がいるというのにか?」
先生は本気で不満げな顔をする。
「ハハハ」
化野は身体をのけぞらせながら、大口を開けて笑った。
「これはまた失礼をいたしました」
組んでいた脚を戻すと、本当に申し訳なさそうに頭を下げる。
「ほほお。こう言ってはなんだが、まさか君が、そんなまともな口を聞けるとは思わなかったよ。それこそ失礼な話だが」
「まあ、これも商売ですから。しかし、営業トークだけはできそうもありません」
そんなことよりも、まず身だしなみのほうが大事ではないかなと先生は思ったが、口に出しては言わなかった。
化野は、よれよれのズボンを少し気にするような素振りをすると、ニヤリと笑って言った。
「それに営業スマイルも」
「巧言令色何とやらだ亅
先生は、ついさっき思ったことと裏腹なことを言ってしまったことに気付いたので、こう続けた。
「とは言っても、君にはのっけから驚かされてばかりだよ。うっかりお茶を出すことさえ気づかなかったぐらいだ。それに、この部屋で来客と面談中は、こちらから声を掛けるまでは、誰も入ってこないようになっているものでね。
さあ、コーヒーとお茶はどっちがいいかね? 今直ぐに淹れてもらうから、ちょっとまちたまえ」
「いえ、結構です」
「遠慮しなくてもいい」
「遠慮ではありません。私は、嗜好品の類と生臭物はいっさい口にしないことにしているんです。仕事に差し支えるものですから」
「仕事に? 何故なんだろう」
「さっきも申し上げましたように、例の屋敷は自らの明確な意識と意思を持っております。ですから、広義の付喪神と言っていいでしょう。そう、私は確かにあのあばら家から、新しくそこに住むようになる人間との仲介を依頼されました。
ですが、この仕事には特殊な能力が要求されましてね。つまり、連中が自らの意思表示を行う手段としては、通常の言語を用いないのです」
「と言うと?」
「人間は主に視覚、聴覚を使ってコミュニケーション行います。まれに触覚もあるでしょう。例えば、女の子が男の子の背中に、〈スキ〉と指で書いたりするように」
この男にしては、似つかわしくないことを言う。
先生がニヤニヤしていると、化野は少し顔を赤らめ、コホンと咳をして続けた。
「宇宙人の中には、匂いでコミュニケーションを行うような者もいるそうです。つまり嗅覚ですな。だが、連中は違う。人間の五感にはないものです。それをあえて言葉と言うなら、真実の言葉です。空海ではないが、〈真言〉と言ってもいいでしょう。
これを使いこなせる者は、多くありません。
それなのに、私の助けを必要とする者たちが、引きも切らず待っております。だから私は、自分の仕事を天職だと心得ているんです。
ところが、渋いものや苦いものを口にすると、この私の大事な能力が鈍ってしまうんです。ましてや、酒なんぞ呑んだ日にゃあ……、はあ……、あれは私には毒ですな。それに顧客の中には、生臭いものを極端に嫌う者もいましてね。ですから、どうぞお気遣いなく」
「なるほど、そのことはよく分かった。だが、解決しなければならない問題とは何だろう。あの屋敷の新たな持ち主となるために、娘にできることはないだろうか?」
化野は首を振った。
「この件でお嬢さんにできることは、何もありません」
「ならば、君一人で解決すべきことなのか?」
向こうは、また首を振った。
「私はただ仲介するだけです」
「ちょっと待てよ。娘以外に、まだ仲介すべき人間がいると? それは誰なんだ?」
「分かりません。だが、一つだけ言えます」
「何だろう?」
「あの屋敷の惨状は、元々馬鹿な人間がしでかしたことの結果なんです。ですから、元に戻せるのは当人たちのはずなんですが、もう死んでいるし、その力もない。だとすれば、同じように馬鹿な人間が現れるのを、待つしかないということです」
「いつまで?」
「分かりません。そのうち向こうからフラリと現れるはずです」
「心もとないことだ。悠長に構えてないで、こちらで探すことはできないのだろうか?」
「そんなことをしなくても、あの屋敷が自分で呼び寄せますよ。大丈夫です、私が請け合いますから。現に今までそうやって解決してきたんだから。──おっと不可い、もうこんな時間だ」
化野はガラス板の割れた腕時計を見ながら、慌てて立ち上がった。
「おやおや、まだまだ心もとなさそうな顔をなさっていますね。無理にとは言いません。私は、ほかにも同じような案件をたくさん抱えていますから。──そうだ、今夜例の夢を見るかどうか、それでご判断されてみてはいかがでしょう。もし私にお任せいただけるなら、ご連絡ください」
名刺をポケットから取り出してパチンと弾くと、応接テーブルの上に置く。今度は滑っていかなかったし、斜めに止まることもなかったようである。




