四百九拾九 加賀友禅と女の生首、そして男の影法師
着物は、先生との婚儀の際に奥さんが着ていた加賀友禅であったらしい。柄は、空色の地におしどりの文。それが静かにこちらに近づいてくる。
身体は金縛りにでもあったように首も動かすことさえできないので、目玉だけで妖怪の動きを追う。そいつはとうとう布団のすぐそばまでやって来た。
そこで止まるかと思いきや、そのまま腹の上を踏み越えてゆく。たまらず、うっと声をあげる。その片足の感触と微かな重みを腹の上に確かに感じたのだった。
そいつは布団を横切ると、向こうを向いたままいったん立ち止まった。いつの間にか襟から首が出ている。
幸子なのか?
一瞬、先生はそう思ったらしい。幸子というのは、亡くなった奥さんの名前である。
ところが、襟から出ていた首は髷を結っていた。もちろん時代が違うから、先生の奥さんであるわけがない。
いったい、誰なんだ?
何とか顔を見ようと思って、目玉だけ必死に端のほうに寄せるが、どうしても見えない。
もどかしく思っていたら、当の加賀友禅が自分の襟から首が出ていることにひどく戸惑っているらしく、両腕でもぎ取ろうとしている。
すると、その首がいきなりポトンと落ちた。加賀友禅は慌てたように走っていき、そのまま壁の向こうに消えてしまった。
首はコロコロと転がり、すぐそばでこちらを向いてビタリと止まる。
何とその顔が、先生の娘さんによく似ていたらしい。しかも、悲しげな顔をしている。すわ、こいつはただ事ではない!
今度こそ渾身の力を込めて 起き上がろうとしたが、やはり不可能だった。今度は布団の下から両腕が伸びてきて 先生の首に絡みついてきたからである。
慌てて振りほどこうとするけれども、もがけばもがくほどしつこく絡みついてくる。
そのうち自分の身体が、まるで木の葉が渦に巻き込まれるようぐるぐる回転し始める。
しかし実のところ、自分の身体が回転しているのか、天井が回転しているのか、さっぱり分からない。
これまで幾多の危難に出くわしてきたことか。そのたびに、己の才覚と胆力で乗り越えてきた。しかし、今度ばかりはどうしようもない。
俺はこのまま死んでしまうのだろうか?
とうとう、そう観念せざるを得ないほど、追い詰められてしまった。しかし、その覚悟はいつでもできていたはずだ。えい、ままよ。ケ・セラ・セラだ。
そうこうしているうちに、いつの間にか深い眠りに落ちていた……。
目が覚めると、着物の妖怪は消えていた。彼の首に絡みついていた腕もなければ、直ぐそばに転がっていたはずの女の首も見えなかった。
いやはや、悪い夢を見たものだ。このところ激務が続いていたからであろう。
そう思って、翌日は仕事をそこそこに切り上げ、早めに就寝したのだった。
ところが悪夢は終わらなかった。深夜にふと目を覚ますと、襖がいきなり ガラリと開く。
今度は加賀友禅ではない。全身が黒い影になっていてよくは見えなかったが、どうも男のようである。
慌てて起き上がろうとするが、今度も金縛りにあったように身体が動かない。
影法師も、加賀友禅と同じようにこちらに近寄ってくる。すぐ布団のそばまでやってきた 。また腹を踏まれると思って、思わずうっと呻いたが、影法師はそこに立ち止まったまま、しばらくこちらを見下ろしている。
何だ、お前は?
そう言おうとしたが、やはり喉がひりついたようになり、声にならない。
すると影法師は、そこでおもむろに座り込んだ。懐手をして黙ったまま、こちらを見ている。顔は見えないけれども、雰囲気でそれが分かる。
おい、私に何が言いたい? 何が目的なんだ?
目玉だけで問いかけようとするが、答えは返ってこない。着物の妖怪と同じく、ただ悲しみのようなものが感じられるばかりだった。
そのうち気がついた。そうか、私はまた夢を見ているんだな。夢ならば覚めるはずだ。こんなものに振り回されてどうする。えい、ままよ。ケ・セラ・セラだ。
そう心に念じたら、間もなく本当に深い眠りに陥っていた。目が覚めたら、平和な朝の光が障子越しに降り注いでいた。
ところが、悪夢はそれで終わりではなかった。加賀友禅と女の首と、そして男の影法師は、それから毎晩のように先生の夢枕に現れるようになったのである。




