四百九拾八 小袖の手、再登場
「よく我慢なさいましたね」
僕がそう言うと、先生はソファにのけぞり、フフンと鼻を鳴らせた。
「むしろ 楽しませてもらったよ。 今の私の周りには、なかなかいないタイプの人間だからね」
そいつはただの人間ではありませんよ。人間は人間でも、それは半分だけで、残りの半分は 妖怪なんです。
それに不動産仲介業というのはこの世の仮の姿で、 本当はあの世と この世の仲介をしているんです。あるいは、人間と人間ではないものとの。
待てよ、先生はさっき蛇の道は蛇とおっしゃったが、この仕事はまさに奴にうってつけの仕事かもしれないぞ。
よほど声に出して、そう言いたかったが、それは抑えた。いや、声だけでなく、思念がもれることも。
その後の二人、もとい1.5人のやり取りはこうだったらしい。
化野は、眼鏡の奥からじっと先生を見ながら言った。
「いや、むしろあんたは、真実から目をそらそうとしているんじゃないですかい?」
「ほお、今度は先生じゃなく、あんたときたか。面白い。それで何が言いたいのかね?」
化野は再び眼鏡を外してテーブルに置こうとしたが 、途中で思い直したのか 、また顔に戻してから言った。
「あんたは見たはずだ。そいつは夢でもなければ、幻覚でもない。だからと言って事実かというと 、そうでもない。だが、まさしく それは真実なんだ」
「分からないなあ。 何のことだろう」
先生は少し不吉な感じに襲われながら、際どい声で言った。
「ふん、これだから困っちまう。いくら空とぼけるのが政治屋の特技だからって、こんな時にまでそんな能力を発揮されちゃあ、話が進まないや。いい加減、正直におなりなさい」
ここに至って、先生はとうとう腹を立てた。
「これ以上私に無礼な態度を取ると、外に放り出してしまうぞ。ここには、腕に自信のある者が何人もいるんだからな。いや、他人の手を煩わせることもないか。どれ、この私が──」
大柄な先生がテーブル越しに相手の襟首を掴もうとした瞬間、向こうはひらりと身をかわして立ち上がった。
「おっと、いいんですかい? せっかく私が手を差し伸べてあげようというのに、あんたは無下にそれを拒否しようとしている。あとで吠え面かこうが、お嬢さんがどうなろうが、もう知りませんぜ」
「それはどういうことだ?」
もう一度捕まえようと試みるが、向こうはさっと離れる。意外にすばしっこい。
「いやね、別にあの者たちに悪意があるわけではないんですよ。ただ、自分たちではどうしょうもないんです。あんたもいろいろ聞いてるでしょうが、あの屋敷にまつわる話を」
「ふん、くだらん。私は、何でも合理的に考えるようにしているものでね」
「だったら、あの家の者が死に絶えてもう七十年も経つというのに、どうして今までの間放置されてきたんでしょうな?」
ソファの向こうから嘲るように言う。
「それは単に、今まで関わった人間たちが怠惰であったり、怯懦であったりしたからだろう」
「そして今は、あんたが関わっている。しかし、あんたが頼みにしていた不動産屋は、すぐにトンズラしちゃいましたね。それからあの若い弁護士さんだ。
あんたは、その両方ともが怠惰であったり、怯懦であったりするせいだと決めつけるんですかい? かわいそうに、あの青年も今、相当苦しんでいますぜ。あんたが、彼の将来の芽を摘んでしまうわけだ。
そして、あんたのお嬢さんだ。相続のことなんかよりも、もっと肝心な問題がある。それを先に片付けなければ、お嬢さんにどんな災厄が降りかかるか分かりませんよ。いや、彼らにだって別に害意があるわけではない。でも、囚われの身になってしまっているから、自分で自分のことがどうしようもならないんでさあ」
ここに至って、先生に少し思い当たることがあったので、念の為聞いてみることにした。
「彼らというのは何だ?」
「それを一番に聞かなくちゃあ。まったく手のかかるお人だ。だが、私が答えるまでもなく、あんたには心当たりがあるはずだ。見たでしょう?」
「……夢のことか?」
「夢ではない。本当のことですよ」
実は先生は、もう一ヶ月近くも悩まされていた。それを、悪い夢だとばかり思い込んでいたのだが。
それは突然始まった。ある夜、床に就いていた時に、何の断りもなくガラリと襖が開いた。
見ると、着物姿の女が立っている。着物は空色の地におしどりの文。
一瞬、亡くなった奥さんかと思ったらしいが、大間違いであった。着物の袖からは両腕が伸びているが、襟から出ているはずの首がない。
着物の妖怪は、まるで目隠しをされた人が両手で周りを探りながらそろそろと歩くように、こちらに向かってきた
驚きのあまり叫ぼうとしたが、喉がひりついたようになって、声がでない。今度は起き上がろうとしたが、身体が金縛りにでもあったようにびくともしない。




