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四百九拾七 ランドセルには宿題がたまる一方だ

 いつも重いものを背負い続ける行人か……。


 僕はそっとため息をつくと、つい考え込んでしまった。


 いつか両親のことを胸を張って誇れるような時が、本当にやってくるのだろうか。

 

 母は自由奔放に生き、僕のことなんか顧みることもなかった。そんな母のことを、僕はまだ赦していないし、赦すつもりもない。そして、僕がものごころつく前に死んでしまった父のことも。


 この重い荷物を僕はまだ下ろしていない。


 化野あだしのにその目はどうしたのかと尋ねたら、父母未生以前ぶもみしゃういぜんの昔からだという答えが返ってきた。


 あいつは半分妖怪だからそれでいいのだろうが、こっちは生身の人間だ。


 父母未生以前の本来の自分なんてあるわけがない。彼らのDNAを引き継いでいるからこそ、今の自分があるのだから。


 だから、仮に二人を赦すことでその荷を下ろすことができたとしても、本来の自分に立ち帰ることができるとは、とても思えない。


 それでは、父と母など関係なく本来の僕という存在があって、ある日順番が来たか何かで、神様が彼らの遺伝子を借りて、僕をこの世に送り出してくれたということは?


 いや、そんなのはおとぎ話よりも幼稚で馬鹿らしい話だ。神様なんかいるわけがないし、この僕も偶然のように生まれ、偶然のように死んでゆくだけだ……。


 それに、たとえ彼らを赦して荷を下ろしたところで、また別の荷物を背負うだけだ。先生の言うように、人間は一生、何かの課題を背負いながら生きていくしかない……。






「それでも、お父さんとお母さんのことは赦してあげるべきだな。さもないと、ほかの課題までは抱えられないぞ」

 突然、そういう声がした。


 僕は、まだ半分寝ぼけている人のように目をしばたかせながら、先生を見た。


「あれ……? 君は今独り言を言ったっけ?」

 向こうは不思議そうな顔をしている。


 そうだった。僕は子供の頃から変なものが見えるだけでなく、考えていることがそのまま他人に伝わってしまうことが時折あるのだった。そういう人間も、世の中に何人かはいるらしい。


「済みません。時々独り言を言うくせがあるものですから」

 苦笑いしながらごまかす。


 先生も笑って言った。

「まあ、誰にもあることさ。この私だってたまにそういうことがある。特に政治のことで行き詰まって、あれこれ悩んだりする時などはね」


「先生も悩んだりすることがあるんですか?」


「あるとも。こう見えても、肝は小さいんだから。それよりさっきの話だが、焦ることはないからな。そのうち、そういう時がきっとやってくるから」


 こちらを安心させるような穏やかな表情である。


「ところで話が横道にそれてしまったが、私の言いたかったことは、法律は完全なものではないし、万能でもないということだ。ほら、餅は餅屋、じゃの道はへびと言うじゃないか。

 実は昨日、変な不動産屋がやってきてね、アポも何もなしにだ」


 先生はいかにも愉快そうに言ったが、こちらははっとして耳を澄ませた。


「もちろん私は、常時いろいろな課題を抱えてあちこち飛び回っているから、ここにいることなんてほとんどない。それなのに、あの男はいかにも私がいる時を狙いすましたようにここへやってきた」


「ひょっとして化野ですか?」

 勢い込んで聞く。


「そうだ。君の所にも行ったらしいな。ずいぶん無礼な奴だったろう?」


「はい。それに危険な奴です。彼の目はどうでしたか? 眼鏡は?」


「ん、彼の目がどうかしたかね? 眼鏡はかけていたが」

 眉を上げて、不思議そうな顔でこちらを見る。この様子だと何も知らないらしい。


「あ、いえ何でもありません。それで、奴は何と?」


「それが挨拶もろくろくしないうちから、こう言うんだ。先生、あの家は相続の問題さえ片付ければいいというものではありませんぜ、と。あの男から先生と呼ばれた時は、虫唾むしずが走ったよ。追い返そうかと本気で思ったぐらいだ」


「お気持ちはよくわかります。誠に申し訳ないことで……」


「いや、君が謝ることではない。──それから奴が言うには、あのややこしい相続問題については、この私めが瞬く間に何とかして差し上げますよ。ですから、少しだけ待っちゃあいただけませんかね。その前に、どうしても蹴りをつけなければならないことがあるんですよ。よござんすね、と」


「それで先生は何と?」


「もちろん断ったさ。すでに優秀な弁護士に頼んであるからとね」


 僕はそれを聞いて、がくりとうなだれた。

「ご期待に添えず、申し訳ありませんでした」


「まあ、最後まで聞きたまえ。すると奴め、よれよれの背広のポケットから、しわくちゃのハンカチを取り出した。それから何をするのかと思ったら、眼鏡をはずしたんだ」


「えっ、とうとう眼鏡をはずしましたか。それで、どうなりました?」


「別にどうもなりゃしないさ。奴め、横着にも私の眼前で脚を組むと、何も言わずそのハンカチで眼鏡を拭き始めた」


 あいつめ、とうとう先生までその手で脅したのか……。

「そうだったんですか。さぞ驚かれたでしょう?」


「そりゃ驚いたさ。この私にあんな無礼な態度を取ったのは、あの男が初めてだからね」


「はあ……」


「化野は、眼鏡をいったん宙にかざすと、眉間にしわを寄せて拭き具合を確かめているんだ。そうしながら奴め、私に何て言ったと思う? 生意気にも、物事は表面だけ見ていては駄目だ。そんなんじゃあ真実は決して見えない、だとさ。それから、さらに息を吹きかけてもう一度ゴシゴシやった。それでやっと満足したのか、また顔に戻した」


 どうやら、先生の前では何事も起こらなかったらしい。

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