四百九拾六 行人
その後何日も思い悩んだ末に、ようやく意を決し、中野先生の事務所を訪れたのだった。僕があの人のことを先生と呼ぶようになったのは、何と言っても恩人であるし、心から尊敬もしているからである。
アポを取っていたこともあるのだが、先生はわざわざスケジュールを調整して待っていてくれた。
部屋に案内された僕をにこやかに迎えると、片手を前に出しながら座るように促す。自分も机からソファに移動して腰を下ろした。
「例の件だったな。ずいぶん難儀したろう? 済まなかったね」
包み込まれるような笑顔である。そのうえ、先に用件を切り出してくれたので、肩の荷がすっと下りたような気がした。
「実はそのことなんですが、今日はお詫びに上がりました」
両膝に手を置いて、まず頭を下げる。
「何とも情けないやら申し訳ないやらの気持ちでいっぱいなんですが、今回の件は僕には……」
結局そこで口ごもってしまった。
すると、意外な言葉が返ってくる。
「いやあ悪かった。詳しいことを前もって話しておかなかったのは、君に変な先入見を持たせては不可いと思ったからだよ」
「はあ……。でも、どういうことなんでしょう?」
「ハハハ。まるで狐につままれたような顔をしているじゃないか。しかしまあ、無理もない。この私でさえ、そうなんだから。
実は君に話を持ち込む前に、ある不動産屋に頼んでいたんだ。ところが、そこは早々にしっぽをまいて逃げ出しちまった。それで、弁護士の君なら、何とかなるだろうと思った。ただ淡々と法律に則って手続きさえすれば、簡単に片付く話だとね」
前の不動産屋とは、まさか化野のことを言っているのだろうか? しかし、あいつがしっぽをまいて逃げ出すなんて、とてもそんなふうには見えなかったが……。
こちらがなおも訝しそうにしていると、先生は続けた。
「あの家屋敷は曰く物件でね。持ち主の白河家の血筋はとうに絶えてしまっているんだが、名義人はそのままだ。ところが、白河家とは縁戚関係にある藤尾家というのがあって、実は娘の京子は中野家だけでなく、藤尾家の血筋も引いている。
その藤尾家の者から、私が頼まれたんだ。いつまでもあの家のことで、地域の人たちに迷惑をかけ続けては不可い。もうこの辺でおしまいにしなければとね。それで私が一肌脱ごうと乗り出したわけだ。ここまでは事前に話していたな。
ところが、問題はほかにあった。つまり、あの家が呪われているということだ。私はそれを聞いて一笑に付した。あまりにも馬鹿らしくて、弁護士の君に言っても、やはり笑われておしまいだと思ったんだ。私も、怪異など一切信じない質でね。
あの物件はただ相続人が多くてややこしいだけのもので、一人ひとり丹念に探していけば最後には必ず全員にたどり着くし、解決できるはずだ。前の不動産屋はそれを面倒に感じて、中途で放り出してしまった。しかし、弁護士の君ならきっとやり遂げるだろう。そう高をくくっていた訳だ」
「申し訳ありません。実は僕も、その……」
「分かっている。君が謝る必要はない。軽く考えていた私が悪かったんだ」
先生はそう言って頭を深々と下げた。
「あっ、先生亅
僕は慌てて半分腰を浮かしながら言った。
「お願いですから、おやめください。悪いのは僕なんです。僕は弁護士失格なんです」
「いや、それは見当違いだよ。今回のことは、法律の及ばない案件だったんだ」
先生は頭を上げると、こちらの目を真っ直ぐに見ながら言った。
「法律は完璧ではない。政治がそうであるように。いや、世の中のすべてがそうなんだ。科学も哲学宗教も、あるいは文学も芸術も、完全なものなんて何一つない。我々人間は、それでも完全なものを目指す。そこが人間の素晴らしいところではないだろうか。
ところで、完全なものとは何だろうか。それは人間を幸福に導くものかもしれないし、あるいは誰かの言った『真善美』のようなものかもしれない。それは確かにあるんだろう。虹の彼方にね。実際にそれを手に入れることはできないし、そこにたどり着くこともできない。
だから人間は、それを求めて永遠に歩み続けることになる。ゴールは確かにある。そこを目指して歩いている。にもかかわらず人間は中途で挫折し、もがき苦しむ。しかし、だからといって逃げては不可い。あるいは何もせず、ただ路傍に佇んでいるだけの人であっても不可い。あるいは、綱渡り人を見物する傍観者であっても不可い。むしろ、自ら綱を渡る人であるべきなんだ。
畢竟、人間というものは、いつも重いものを背負い続ける『行人』のような存在なんだろう。絶えず行きつ戻りつしながら、目的地には永久にたどり着くことのできない旅人のような」




