四百九拾五 再び手、手、手、手、手……
化野は、僕のオフィスにアポも何もなく、突然やってきた。ドアを開けた途端、室内を無遠慮に見回すと、真っ直ぐデスクまで歩いてくる。
それから片手でいきなり自分の名刺だけを差し出すと、こちらが対応するタイミングも与えず、勝手に応接椅子に座った。
あわてて近づき、名刺を差し出しながら挨拶をした。向こうは座ったままそれを受け取ると、こちらの顔と名刺を交互に見比べながら、ふーん、あんたがね、とつぶやいた。無礼極まりない。
他人の名刺を指でパチンと弾くと、無造作に放り出した。名刺は、テーブルの上を少し滑っていき、斜めに中途半端な位置で止まる。
僕はぐっと堪えながら、作り笑顔で言った。
「今日はどのような御要件でいらしたのでしょうか?」
こいつの名刺には、〈化野不動産〉と書かれてあるから、弁護士の僕に何か土地絡みのことでも依頼するために来たに違いあるまい。
ひょっとして、顧問弁護士の依頼かとも一瞬期待したが、こいつの態度、風体からして、そんなものを頼めるほどの会社でもあるまい。だが、それでもいい。これもビジネスだと割り切り、営業スマイルに徹する。
化野は、よれよれのズボンをはいた脚を組んで言った。
「実は先生にお願いがありましてね」
先生とは恐れ入った。時代劇でヤクザの親分が、肺病やみの浪人に用心棒でも頼むような口振りである。
親分の腹の底は知れている。
こいつは妖剣の使い手で腕は立つ。だから、先生などと呼んでおだててはいるが、もう長くはあるめえ。世をすねているから、自分の手を汚すぐらい何とも思っちゃいない。人殺しでも何でもやってくれるだろうよ。謝礼は端金で十分だ。あとは安酒でも飲ませて、オマケに女郎でもあてがっておけば、何でもこっちの言いなりになるに違えねえ。
そう思って侮っているのである。
いま目の前にいるこの男も、ヤクザと大して変わりはあるまい。こういう手合いを相手に下手に出ては不可い。舐められてしまうこと必定だ。
そう思い、わざと邪険に言った。
「だから、何の御用でしょうかと聞いたばかりではないですか」
すると化野は、フフンと笑った。
「何を笑うんですか?」
向こうは返事をしなかった。代わりに眼鏡を外してテーブルに置くと、手のひらで両目をゴシゴシ擦っている。しかし、すぐにそれをやめたかと思ったら、眉毛の下がツルンとして何もない。
いやあ、また変なのがやって来たぞ。何なんだ、こいつは?
驚き呆れながら見ていると、化野は何もない両目でこちらを見ながら言った。
「こんな商売をしていると、あんたのようなひよっこにまで馬鹿にされて不可い」
「いや、別に馬鹿にしてなんかいませんよ」
慌てて否定した。
「私を見くびっちゃあいけませんぜ。現に私のことを、こいつ呼ばわりしたばかりだ」
ふと気づくと、テーブルの上の眼鏡に目玉がくっついていて、油断なくこちらを見ている。いやはや、びっくりしたのなんの!
その目玉が、こちらの心中のみならず、過去、現在、未来までも一切見通しているぞとばかりにギラギラ光っている。
「いや、これは申しわけありませんでした。つい、驚いたもので」
すっかり動揺しながら頭を下げると、取り敢えず尋ねてみた。
「その目はどうされたんですか?」
我としたことが、わざとらしい質問をしたものだ。
「なあに、父母未生以前の昔からでさあ」
平然と答える。
「そんなことより、肝心な用件に入りましょう。手っ取り早く申し上げますよ。例の屋敷の件ですがね」
化野はそう言うと、具体的な物件の住所を告げた。
「それが何か?」
心臓の鼓動が激しくなっていく。
「それが何かって、本当は分かってるんじゃありませんか? 旦那も人が悪いや」
呼称が先生から旦那に変わった。これは降格なのか? いや、どっちにしろ年下の人間をそう呼ぶなんて、明らかにこちらを愚弄し、挑発しているのだ。
化野はおもむろにテーブルの眼鏡を手に取ると、元通りに顔にかけた。
「お手間を取らせたくないから、はっきり言いますよ。この件から手を引いてもらえませんかね?」
二つの目玉が、今度は正規の位置からこちらの様子をじっと窺っている。
「それはできません。恩人の依頼だから引き受けたというのに、そんな手の平返しみたいなことができるものですか」
頑張ってそう答える。
「虚勢を張らなくてもいい」
「虚勢なんか張っていませんよ」
そう言って虚勢を張る。
「ふふん」
化野が再び笑う。
「お利口さんだから、いつまでも手を焼かせないようにしてくださいよ。いいですかい? あれは到底、人の手に負えるものではありませんぜ。おやおや、あんた、口とは裏腹に顔が真っ青だ。いつまでも我を張るのはやめることですな」
「何をおっしゃっているんだか。いいですか? これは、弁護士としての私の信用に関わる問題です。お断りします」
やはり我を張った。
化野は、いったん眼鏡のフレームに手をかけて外そうとした。しかし、直ぐに思い直したかのように、まじまじとこちらの顔を見る。
こちらも見返していると、ついにのけぞるようにして笑いだした。したたか笑うと、ポンと膝を叩いて立ち上がる。
「まあ、勝手におやんなさい」
そう捨て台詞を吐くようにつぶやくと、オフィスを去っていった。
今回は、過去に〈石児童〉が登場した時と同じように、夏目漱石の『夢十夜』「第三夜」を明確に意識して、同じような語彙、言い回しを使っております。




