四百九拾四 あばら家問題
僕が黙っていると、あの男は続けた。
「君のお父さんは、義に厚い男だった。義を見てなさざるは勇無きなりと言うが、まさにそれを絵に描いたような人だった。だが、その結果はどうだ? 本人が死ぬのは本人の勝手だが、そのために君のお母さんはどれだけ悲しんだか。どれだけ苦労してきたことか。そして君もな。
義に生きるのはいい。だが、時にはずる賢く立ち回ることも必要なんだ。君はこれから、学問とともに、そういうこともしっかり身につけていかなければな」
僕はそれでもうつむいたまま、黙っていた。何か言いたくても、それをうまく言葉で表現できなかった。
いや、それよりも鼻の奥が急にツーンと痛くなり、目頭と鼻孔から何かが同時に滲み出してきたからだった。
「今まで涙も出なかったんだろう。ひょっとして、涙の存在さえ忘れていたかもしれないな。ふん、泣いてもいいさ。どんどん泣きなさい。男だから人前で泣いちゃあ不可い、なんて法律はないんだから。
だが、お父さんとお母さんを決して恨むんじゃないぞ。今直ぐにというのは無理かもしれないが、いつかきっと、ご両親のことを胸を張って誇れる時がくるから」
僕はとうとう我慢しきれなくなって、嗚咽しはじめた。涕が頬を伝うのを拳で拭いた。ついに泗まで出てくる。手近にティッシュがなかったのでズズーっとすすったが、それでも出てくるのは仕方がなかった。
男はその様子をじっと見ていた。こちらにハンカチを渡すこともしなかったし、肩を叩くこともしなかった。しばらくして祖母に再び手を合わせると、そのまま立ち去った。
僕はその長身を見送ったあと、思いっきり声を上げて泣いた。こんなに泣くのは、例の小学校4年の時にイジメられ、服があちこち擦り切れていたうえに、顔に青あざを作っていたことを母に問い詰められた時以来だった。
あの男が大物の国会議員、中野十一であるということを知ったのは、そんなことがあったあとのことだった。
それからほどなくして僕は一大決心をし、弁護士への道を目指すことにした。例の幼年時代から悩まされていた変なものたちは、それっきり見えなくなる。
高校時代の成績は芳しくなかったから、言われたとおり予備校に入学し、必死で勉強した。その甲斐あって希望どおりの大学に合格し、その後も女などには脇目も振らず、ひたすら勉学に励んだ。こうして本当に弁護士になったのだった……。
磯崎は、ここで一段と強くチューチュー音を立てながら、親指を吸った。松尾が見ていることに全くお構いなく。
それなのに……。
磯崎のモノローグは続く。
それなのに、不動産相続に関するあの人の依頼に、僕は応えることができなかったのだ……。
あれはとにかく変な家だった。あの家屋敷は、もう70年以上も前に死んだ人の名義のままだったし、法廷相続人も百人は下らなかった。
だが、それだけのことなら別に珍しいことではない。昨今は空き家問題というものがあって、僕も少しは関わったことがある。
だから、あの人から依頼があった時は、お安い御用ですよ、と快く引き受けた。いや、快くなんてものじゃない。これでやっと少しは恩返しができる。そう思い、張り切って調査に取りかかったものだった。
ところが、そんな生易しいものではなかった。いつものように、ただ法律に則って手続きをすれば済むというレベルの話ではなかったのだ。
また、例の異形のものたちが見えるようになったのである。以前よりもはっきりと。
僕は怖おののいた。そして同時に、訝しくも思った。自分が怖れているものの正体は、いったい何だろうと。
正体が分からないものほど、恐ろしいものはない。幽霊の正体見たり枯れ尾花、という。だが、僕が恐れているのは、断じて枯れ尾花なんかではない。
では何? 僕は何を恐れている? あれは幽霊みたいなもの? 幽霊なら、法律なんかでは太刀打ちできるはずがない。だが、幽霊の元は人間だ。
人間の業。欲望。苦しみ。悲しみ。恨み。それらが幽霊を生み出す。それならば、生きているうちに法律で解決すればいい?
否々! そんな簡単なものではない。人間なんて、もともと不合理な生き物だ。そして人間界は理不尽にできている。その不合理で理不尽なものを、むりやり条理でもって解決しようとするのが法律だ。
だから、どうしてもそこに本当は解決できないものが残る。だからこそ、悪いことをする人間がいるし、逆にそのことで苦しまざるを得ない人たちがいるのだ。法律は無力だ。
そのことに気づき、愕然とした。ますますこの世が怖くなった。だが、恩人からの依頼だ。どうしたらいいのか……。
何日もそうやって煩悶していた時に、あの化野霊児という妙な奴がやってきたのだった。




