四百九拾参 弁護士への道
あの女はその後、男遍歴や仕事のドタキャンなどで、お騒がせ女優として名を馳せていく。自分の息子のことなんか、相も変わらず放ったらかしで。
僕が中学生の時だった。あの女は一時期仕事を干されていたが、ある映画で一躍脚光を浴び、何かの賞をもらったことがあった。体当たり演技だかなんだか知らないが、素っ裸になって濃厚なセックスシーンを演じたらしい。
もちろんそんなものを僕が観るわけがないし、彼女が出演したものは、今日に至るまで一切見ていない。ところがいじめっ子の一人で、R指定がされていたにもかかわらずその映画を観た奴がいて、みんなの前で、お前の母親は淫乱女だと言った。
その頃の僕は、なるべく目立たないように大人しく暮らしていた。たとえイジメに遭うようなことがあっても、無難にやり過ごす術も心得ていたはずだった。
だが、その時だけは違った。そいつの胸ぐらにとびつくや否や、顔のど真ん中に猛烈な頭突きを食らわした。間髪を入れず、狂ったようにそいつの顔と言わず腹と言わず、容赦なくパンチをお見舞いしてやった。気がついたら、そいつは顔を血だらけにして教室の床に倒れていた。鼻と頬の骨が骨折していたらしい。
そいつは病院送りにしてやったが、こっちは家庭裁判所に送致されてしまった。危うく少年院に入れられそうになるが、保護観察処分で済まされることになった。母が中野という男に相談し、その男がよこしてくれた弁護士の手腕によるものだった。弁護士という人種を見たのは、その時が初めてである。
母が鑑別所まで迎えに来た。一緒に門を出ると、黒塗りの高級車が待っていた。運転手が直ぐに出てきて後のドアを開けると、母に乗るように促した。母は中に向かって深々とお辞儀をすると、僕のほうを振り返った。
「この人が、あんたを助けてくれた中野さんだよ。何をしてるの? ボーっと突っ立ってないで、早くお礼を言いなさい」
そう言うと、僕の坊主頭を強引に押し下げた。そうされながらも、僕は反抗するようにものも言わなかった。
後部座席には大柄な男が居て、鷹揚に言う。
「いいんだ、いいんだ。──さあ、あんたも早く乗りなさい」
母はぼくを睨みつけると、もう一度頭を下げてから、中に乗り込んだ。
運転手は、今度は前のドアを開けて、僕を促す。どうせ新しい男なんだろう。そう思って、相変わらずムスッとしたまま助手席に座った。
「弱虫め」
後ろから唐突に男の声がした。僕はそっぽを向いて振り返りもしなかったので、その表情は分からなかったが、男は構わずに続けた。
「かっとなって暴力を振るう奴のことを、弱虫と言うんだ。まあ、私も他人のことは言えないがね。ハハハ。いいか? お前にお利口さんになれとは言わないが、悧巧に立ち回ることは、人生で本当に大切なことだぞ。要するにずるくなれということだな。近頃私もようやくそれができるようになってね。ハハハ」
勝手に一人で笑ってろ。僕はわざと聞こえるように、チッと大袈裟に舌打ちをしてやった。
「お前の親父を知っている」
男はよほど神経が図太くできているのか、何事もなかったように続ける。
「いい奴だった。だからこそ、こうやってお前を助けてやるんだ。恩義には恩義で報いてやらなければな。分かるか?」
顔を見た記憶さえない父親のことを今さら言われたって、何が分かるもんか。僕は最後まで男と口を利かなかった。男もそれっきり喋るのをやめた。
そんなことがあってからも、あの女の行状が改まることはなかった。僕が高校生の時に、あいつは癌で死んでしまった。財産は一銭も残っていなかった。最後の男は、実業家だとか何とか母は言っていたが、とうやらそいつが全部持ち逃げしたらしい。
僕を最後まで見守ってくれた祖母も、それから何ヶ月も経たないうちに死んだ。いよいよ天涯孤独の身になってしまった。
だが、もうあの女に振り回されなくて済む。よし、この際だから高校なんか辞めちまおう。これからは自由になれるんだ。
ほとんど誰も弔問に来ることのない通夜の会場で、涙も流さず一人でそう決心していると、またあの男がやってきた。中野は祖母の顔にかかっていた白い布を勝手に取り、静かに手を合わせた。それからこっちを振り返ると聞いてきた。
「これからどうする?」
「その節はお世話になりました」
その時になって初めて僕は、彼に頭を下げた。少しだけ大人になった気分だった。
「取りあえず高校は退学しようと思っています。何はともあれ、食っていくのが先決ですから。アルバイトでも何でもすれば、自分一人ぐらい何とかなりますよ」
「短気になるんじゃない」
ピシャリと言われる。
「君のお母さんのお金は全額取り戻せるよう、例の弁護士が今手続きを進めているところだ。だから高校はちゃんと出なさい。大学もだ。その前に予備校に行ってもいい。死にものぐるいで勉強して、とにかく何でもいいから自分の歩むべき道を見つけるんだ。お母さんのお金で足りなければ、私が援助してやる。君のお父さんには、それほど感謝しているんだから」




