四百九拾弐 ママの武勇伝
騒ぎを聞きつけた父親が出てくる。確かPTA会長だった。父親は直ぐに事情を察し、とりあえず頭を下げてから言った。息子は私が叱っておきます。それから洋服も弁償しましょうと。すると、あの女は血相を変えた。いきなり尻をまくるようにして、上框に腰を下ろした。それから片方の足をもう片方の膝に載せると、こう啖呵を切ったんだ。
馬鹿にするんじゃないよ。金なんかいくらでもあるんだ。てめえ、この私をいったい誰だと思ってんだい? 今じゃあ女優というしがない商売をやってるがね、ナナハンのお吟と言えば、この界隈じゃあ少しは鳴らしたもんさ。タイマンを張ったら、相手が男だろうが女だろうが、いつも7秒半で倒していたからね。
そうだ、名乗るのをすっかり忘れていた。私はこの勉の母で、磯崎吟子と申します。以後、お見知りおきを。昔はその名をもじって、イソギンチャクの吟子とも呼ばれておりましてね、ふふふ……。自分で言うのも何だが、見かけはこんなに美しいというのに、実は肉食なんだ。触手の神経毒で麻痺させ、獲物を丸呑みしてやるのさ。そういうことも知らないのかい? ということは、あんたモグリだね。モグリならモグリらしく、黙って私の言うことを聞きな。
何がお望みでしょうか? 父親はたじたじとなりながらも、何とか威厳を保とうとしてそう言った。すかさず吟子は声を荒げる。だから、最初から言ってるじゃないか。てめえんとこのガキをここによこしなって。
父親は、吟子のあまりの剣幕と狼藉ぶりに、顔を赤くしたり青くしたりしながら、しばらく口をパクパクさせる。今度は母親のほうが震えながら哀願する。私どもにできることは何でもいたしますから、どうかそれだけは勘弁してください。
するとあの女は、ふっと笑った。何も取って食おうってんじゃない。あんたたちじゃなく、可愛い我が子にこんな乱暴を働いた張本人に謝ってほしいだけなんだ。それにあんたたちだって、何の罪もない人間をこんな目に遭わせといて、詫びの一つも言えないような子に育てあげるつもりかい? 放っていたら、ろくな大人にならないよ。そうなって困るのはあんたたちなんだからね。
すると父親が母親に頷いてみせたので、母親は奥に引っ込んだ。間もなく張本人が顔を現す。もうベソかいてやがんだ。僕はもうそれだけでスッキリしたんだが、あの女がそれで済ますはずがない。すくっと立ち上がると、相手を見下ろして言う。お前かい、うちの子にこんなことをやらかしたのは? 向こうはますます泣き顔になって、両親を代わるがわる振り返る。
それから顔を元に戻すと、こくんと頷く。吟子はたたみかける。何か言うことがあるんじゃないのかい? その途端、向こうは身体をビクンとさせる。するとあの女は、またさっきのように笑うんだ。何も土下座までしろと言ってる訳じゃない。ただ、この子に謝るだけでいいんだ、心からね。
向こうはまた両親を振り返る。父親が頷くのを見て安心したのか、ゴメンナサイと頭を下げた。すかさずあの女の怒声が響く。バカヤロー! それが心から謝るという態度かい?
女はそいつの髪の毛を掴むと、むりやりそこに膝まづかせた。そのまま相手のおでこを床にギューギュー床に押し付けながら命令した。正解を教えてやろう。ゴメンナサイ、もう二度といたしません。涙を流しながら、そう言うんだよ。
ゴメンナサイ、もう二度といたしません。そいつはしゃくりあげながらやっとのことでそう言うと、ついにワーワーと泣き出してしまった。
その時、僕は子供ながらに思ったものだ。おいおい、これを土下座と言うんじゃないかなと。そして同時に思った。この女は僕のためにこんなことをしているんじゃない。自分が腹を立てているだけなんだ。不甲斐ない僕に。いじめっ子とその親に。そして、世の中に。
さらに思った。決してこのままでは済まない、今にきっとぶり返しが来るぞと。その後も4、5件の家を訪ねて回った。どこも同じような展開だった。
僕の予想は残念ながら的中した。そういうことがあったにもかかわらず、おの女は直ぐにまた家に帰らなくなった。いじめは再び始まった。それだけではない、ますますひどく陰湿になっていった。
いじめっ子の一人は、僕を殴りながら言った。悔しかったら、またママに言いつけてみろよ。だが、できないだろ? お前のママはフランス人の男を追っかけていって、今はシンガポールで暮らしているらしいからな。
別の奴が言った。悔しかったら、またママを連れてこいよ。だが、今度はそううまくはいかないからな。この前のことは、親が警察に相談した。今度同じことがあったら、すぐに逮捕だってよ。




