四百九拾壱 心の中の長〜いモノローグ
磯崎の奇妙な独り言は、まだまだ続いた。初めは朧気にしか聞こえなかったのに、だんだんと靄が晴れていくように鮮明に聞こえるようになっていくのだった……。
このいわかんは、ボクがものごころついたころから、すでにあった。きっとそれは、あの女がある日かってにボクをこの世にほうり出したからだ。こっちのしょうだくもなく、かってに産みおとしておいて、あとは知らんかおだったからな。それなのにやくしょの人がそんな僕を知っているということを知った時は、軽いショックとともに生き苦しさのようなものを感じたのだった……。
役所の人が僕のことを知っているということを、なぜ僕が知ったかというと、ある日突然、小学校に通わされるようになったからだ。
おばあちゃんに、なぜ役所の人間がボクのことを知っているのかということを聞いたら、それは僕がこの世に生をうけたことを、誰かが役所に届け出たからだという。その誰かというのは母だったかもしれないし、あるいはとっくの昔に死んでしまって、顔も見た記憶さえない父だったのかもしれない。
いや、役所が僕の存在を知ったのは、それよりもっと前、母の胎内に僕の命が宿った時だったろう。まったくよけいなことをしてくれたものだ。
それが、僕に関する最初の手続きというものだった。届け出をすると、それが役所に記録される。次に役所から何かの指示がなされる。これが手続きというやつだ。手続きは法律に則ってなされる。人生はその連続である。そのことに最初に気づかされたのが、小学校に通わされることになった時だった。
これからは毎日まいにち、教室という狭い箱の中に閉じ込められ、僕の望まない何かを強制されるのだ。小学校の次は中学、中学の次は高校、高校の次は……。永遠に終わらない。サラリーマンになったらなったで、今度は会社という箱の中に閉じ込められ、死ぬまで何かを指示され、命令され、或いは叱責されたり、愚弄されたりもするのだ。
そんな人生に、僕は違和感を覚えるとともに息苦しさまで感じるようになったのだった。何だか得体のしれない異形のものが見えるようになったのも、その頃からだった。ただ見えるだけで別に悪さをされるわけでもなかったし、誰にも見えるものだろうも思っていたから、最初は気にもとめていなかったのだが、たまたま何かのはずみでおばあちゃんにそのことを話したら、何のことか分からないように不思議そうな顔をするばかりだった。そのうち、その異形のものたちが僕にしか見えないということに気づいたのだった。
だからこのことはもう誰にも口にしないようにしていたのだが、何となくうす気味の悪い奴だとでも思われたのだろう。小学校に上がってまもなく、いじめの標的にされるようになってしまった。これもみな、あの女のせいだ。
あいつは有名な女優で忙しかったから、僕をおばあちゃんに押しつけておいて仕事にばかり打ち込んでいたし、そうでない時は男をとっかえひっかえしては、浮名を流してきた。おばあちゃんに言わせれば、恋愛依存症ということだったけど、今考えれば、きっとセックスにとりつかれていたんだろう。
お金にだけは不自由することはなかった。小公子のセドリックみたいなファッションをさせられて通学していたものだから、ますますみんなの憎悪をかったのだろう。あれは確か小学校4年の時だったか、校庭の隅でみんなからボコボコにたたきのめされ、地面を引きずり回されたりしたことがあった。そんな時に限って、あの女はふらりと帰ってくるのだった。たぶん、自分のほうから男に愛想を尽かせたのか、或いは男のほうが浮気をしたのかどちらかだろう。どうせ、どっちもろくでなしであることは間違いない。
彼女はボロ切れのようになった僕を見て、決してそっとしておいてはくれなかった。どうしたんだい、その格好は? 直ぐにそう詰問された。とっさに、転んだと答たが、すかさず言い返された。転んだだけでそんなふうになるわけがない。顔だって、青あざだらけじゃないか。おっしゃい、誰にやられたんだい? 僕は泣き出す。おばあちゃんはただオロオロするばかり。とうとう本当のことをむりやり聞き出した母は、ものも言わずに僕を車の中に放り込む。
彼女はいつも派手な格好をしていたが、車も何とかいう派手な外車だった。そいつで一番目のいじめっ子の家に乗りつけると、インターホンを押すやいなや、勝手にドアを開けて中に飛び込んだ。母親らしき人が出てきたら、玄関に僕を立たせたまま言った。私の可愛い息子をこんな目に遭わせたのは、どこのどいつだい? どんな馬鹿面をしているのか、ちょっと拝ませてもらおうじゃないかと息巻く。




