四百九拾 おしゃぶりとひとりごと
「冤罪事件というのは、仮に再審請求などして無罪を勝ち取れることがあるにしても、それまでに30年以上も費やすことになるんです。その時、あなたは何歳になっているんだろう? 補償金をもらったって、とても引き合うもんじゃない。膨大な時間の浪費だ。それでも貫くと? 果たして最後まで持ちこたえられるでしょうか」
松尾はついかっとなってしまった。身を乗り出し、アクリル板の丸い窓に開けられた無数の穴に、口をくっつけんばかりにして叫んだ。
「さっきも言ったじゃないですか。彼女を殺したのは僕じゃない。殺してないものを殺したなんて言える訳がない」
磯崎は口元に人差し指を当てた。ツバキがかかったのか、眼鏡を取りハンカチで顔を拭った。さらに眼鏡も拭きながら言った。
「大声を出してはいけませんよ。接見を中止させられるかもしれないから」
松尾はいったんアクリル板から顔を離すと、気を取り直すように天井を仰いだ。フーと息を吐くと、もう一度弁護士に向き直る。
「裁判で心証を良くするために、やってもいないことをやったと自ら白状しろとおっしゃるんですね。しかし、しょせんは嘘の自白だ。当然あちこち細かい所で辻褄が合わなくなりますよ。それを繕うたびに、自白の内容も二転三転することとなる。そのことをもって自白を強要されたと受け取られればいいですが、逆に自白の信憑性を疑わせるために、故意にそうしたと勘繰られてしまうことになりませんか?」
「なるほど、穿った見方になるかもしれませんが、そういうこともあるかもしれませんね」
心もとない答えが返ってくる。
「それに、あの女を本当に愛していたのは、この僕なんだ。あんなボンクラ社長に彼女の──、摂の何が分かるものか。
例の怪しい組織のことを、僕は摂を通して聞き取っていた。だからこそ奴らはこうやって僕を陥れ、彼女まで殺してしまったんだ。彼女の敵討ちをするためにも、僕は自分の無実を証明し、ここから出なければならない。そして必ず、奴らの悪行を白日の下に晒してみせますよ」
「うーん、困りましたね」
磯崎は眼鏡のフレームをくわえるのをやめ、今度は親指の爪を噛み始めた。本当に困っているのだろう。
主筆には悪いが、こんな頼りない奴に弁護をなんか頼めるものか。こっちから引導を渡してやろう、と松尾は思った。
「分かりました。せっかく来ていただいたあなたを、そういつまでも困らせるわけにもいかない。それに、川辺さんの紹介でもありますからね」
向こうは親指を口元から引き抜くと、ぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、私のアドバイスに従ってくれるわけですね」
「ええ、そうですとも」
唾で光っている親指をまともに見ながら、松尾は答えた。
「ただ、どうなんでしょうね? あなたは、最初から戦わずして白旗を上げるわけだ。腕利きの弁護士としてのあなたの信用はガタ落ちですよ。主筆の信用を失うということは、すなわち天下の朝陽新聞の信用も失墜するに等しい。ご存じのとおり、朝陽新聞はリベラリズムを標榜するとともに、権力を監視する装置としてのマスコミの役割を重視していますからね。
いかがでしょう、今回の事件、降りてみては? あなたの過去の実績を汚さないためです。あなたの輝かしい未来を閉ざさないためです。私は決してあなたを恨んだりはしません。それどころか、忙しいスケジュールを裂いてわざわざご足労いただいたうえに、いろいろ有益なアドバイスまでしてくださったことに、とても感謝しているんですから」
磯崎の顔がみるみる青ざめていくのが分かった。また爪を噛みはじめたかと思ったら、何やら一人でブツブツ言っている。
かんしゃしているだって? このオトコ、ひょっとしてボクをぐろうしているのだろうか。だとしたら、けっしてゆるさない。ぐろう? そうとも、ボクは子どものころから、ずっとずっといじめられ、ぐろうされてきた。げんいんはわかっている。ボクが、いしつだったからだ。他人とちがっていたからだ。よのなかはそんなものだ。りふじんなんだ。ものごころついたときから、ボクはそのことにきがついていた。だからなんとなく、ほかの人とうまくいかなかった。いわゆる、いわかんってやつ? そいつがいつもボクをくるしめてきた……。
何だか様子がおかしいことに、松尾はようやく気付いた。実際にブツブツ声に出して言っているのではない。心の中の声のようだ。その証拠に、彼は今、親指の爪を噛んでいる。いや、そうではない。おしゃぶりみたいに親指を吸っているのだ。赤ちゃんみたいにチューチュー音を立てて。いくらなんでもおしゃぶりしながら、同時に声に出して喋ったりはできないはずだ。
この作品はフィクションであり、実際にあった事件若しくは実在する人物又は団体等とはいっさい関係がありません。




