四百八拾九 眼鏡のフレームから煙をくゆらせる男
「裁判の判決なんてものは、善か悪か、真実なのかそうでないのか、──なんてことはあまり関係がなくてね。ただ有罪か無罪か、有罪の場合は量刑をどうするか、要はそれだけのことなんだ」
眼鏡を外し、フレームの端をいったん口にくわえたかと思うと、直ぐに抜いて幻の煙をくゆらせはじめる。それでだんだんと冷静さを取り戻していったようである。
松尾が特に何も言わないでいると、安心したように続けた。
「畢竟、我々弁護士の仕事は、無罪を勝ち取るか、それが無理なら量刑を少しでも軽くしてもらうようにするか、そのいずれかなんですよ」
口調が元のように丁寧になった。しかし、話の展開が気に食わない。
「ご存知ですか? 日本ではいったん起訴されてしまったら、有罪になる確率は99.9パーセントであることを」
そら来た、と思った。磯崎がこれから幻の煙とともに吐き出そうとしている言葉は、目の前の火を見るよりはっきりと予想できたが、あえて最後まで言わせることにした。
「今回のあなたの場合は、さらに深刻だ。はじめから送検ありき、起訴ありき、そして有罪ありきのトリプルですからね。さっきも言ったように、とりあえずは無茶苦茶な口実であなたを逮捕しましたが、立件する際には完璧なストーリーができあがってるでしょう。悪いことに、警察も検察も裁判所もみんなグルときている。しかも、背後には訳の分からない組織が控えているし、くわえて国家権力のどこかと結び付いているときている。どう見ても勝ち目はない。そこであなたに質問です──」
磯崎はそこで話を区切ると、じっとこちらを見据えた。それをぐっと見返す。
「あなたは、そんな敵と戦う覚悟がおありですか?」
磯崎はそう尋ねると、また幻のパイプをくわえる。
「何を言ってるんですか? 戦うに決まっているじゃないですか。こんな馬鹿な──」
松尾はそこでいったん言葉を詰まらせた。
向こうは、幻のパイプをくゆらせながら、冷たい表情でこちらを見ている。
松尾は続けた。
「こんな馬鹿な、理不尽な話があるもんか。いったい法律は何のためにあるんです? 社会正義とやらを実現するためにあるんじゃないですか? こんな話が通るなら、法律なんて要らない。弁護士も要らない。警察も検察も裁判所も、そして政府も、みんなまとめてクソ喰らえですよ。そうそう、名言がある。日本死ねだ」
抑えていた感情がとうとう爆発してしまった。
「世の中なんてものは、もともと理不尽なものですよ」
弁護士は冷静に言った。
「だからこそ、法律がある。世の中と違って法律は完全ですよ。数学ほどではないかもしれませんがね。したがって、我々はこの法律を大いに活用すべきです。ずる賢く立ち回ってね。法律はその面では完全ですよ。言わんとすることが分かりますか?」
「いや、分からないですね」
まだ興奮が冷めやらず、身体を震わせながらそう答える。
すると弁護士は、居住まいを正すように眼鏡を元に戻して言った。
「では、はっきりと言いましょう。この裁判──と言うか、まだ裁判にもなってないですがね。しかし、必ずなる。そうなったら、まず勝ち目はありません。
もちろん、無罪を勝ち取るための最大限の努力はしますよ。裁判になったら、少しでも依頼人に有利になるような事実や証拠を丹念に積み重ねたうえで、法廷で戦います。法律上のロジックやテクニックを駆使してね。私はそういうことには長けている。しかし、結果は目に見えている。この私の高い能力をもってしてもね。それが厳然な事実というものですよ。
したがって、最初からそれを見越したうえで、対策を立てるのです。ことの善悪や真実など、いったん度外視するんですよ。分かりますか? あとは手続きとテクニック、そして警察と検察と裁判官、この三者の心証をいかに良くするか、それだけの問題です。つまり、嘘でもいいから最初に罪を認めたうえで、少しでも減刑されるように、今のうちから対応するんですよ。分かりますか?」
「馬鹿な──」
その言葉を使うのはもう3度目だ。週刊誌の記者だというのに、何て俺は語彙が貧弱なんだろう。怒りで身体がわなわなと震えている。弁護士は、まるでそれを観察でもするかのようにじっと見ていた。
「ふざけるな」
やっと声を絞り出すようにしてそう言った。
「やってもいないことをやったなんて、口が裂けても言えるもんか」
この作品はフィクションであり、実際にあった事件若しくは実在する人物又は団体等とはいっさい関係がありません。




