四百八拾六 救世主じゃないのか?
その言い草にムカッとしたが、何とか自分を抑えた。
「そんなことは、こっちだって最初から分かってるんですよ。これは明らかに冤罪なんだ」
「うーん、どうしようかなあ」
弁護士はうつむき加減にそうつぶやくと、親指と人差指で挟むようにしながら、下唇をいじりはじめた。放っておいたら、今にも親指をしゃぶりだしそうだ。何だか他人事のような感じだし、非常に心もとない。
どうするも何も、弁護を依頼するために呼んだというのに……。
「お受けするとは言ってませんよ」
不意に唇を触るのをやめ、顔を上げてこちらを見る。
「私は、気に入った事件しか引き受けないことにしているんでね。まあ、ほかの弁護士を紹介してあげてもいいですが」
そう言い放ち、銀縁眼鏡を冷たく光らせた。
だったら、とっとと失せちまいな、という言葉は呑み込んだ。こういう場合、どうしたらいいのだろう。黙秘権はもちろん知っている。弁護士を呼ぶ権利があることも。
だが、具体的なことになるとさっぱりわからない。俺としたことが迂闊だった。いざという時はいい弁護士を派遣してやると主筆の川辺さんも言ってくれていたし、自分自身まさか逮捕されるとまでは思ってもいなかったから、全くこんなことには備えていなかったのだ。
この男が駄目となると、当番弁護士とやらを頼むしかないか。確か逮捕後48時間以内に1回呼べるはずだ。いや待てよ、48時間というのは起訴されるまでの時間だったか。うかうかしていると、起訴されてしまうばかりか、そのまま有罪になっちまうから、その間に弁護士のアドバイスを受けておくべきということだったのか。だが、こいつをもう1回呼んじゃったから、これ以上は駄目なのか? それとも、ただで相談できるのが1回だけだったか。いや、分からない! よく勉強しておくべきだった。しかし、まさかこの俺が逮捕されるとは。
もし万が一、起訴までされることになったら俺には金がないし、これ以上主筆に迷惑はかけられない。その時は国選弁護人にでも頼むしかないだろう。だが、おれは『週間風聞春秋』の記者だ。朝陽新聞社の正社員なのだ。やはり、主筆にはきちんと相談したほうがいいだろう。それまでは、完全黙秘を貫いてやる。そう腹を決めた。
「分かりました。自分で何とかします。どうぞお帰りくだ──」
そこまで言った時だった。
「黙秘しているんですね」
突然、そう言われた。こちらを見ながらニヤニヤ笑っている。
こいつ、ひょっとして俺の考えていることが読めるのか? もちろん、さっき逮捕までの経緯を話した時に黙秘のことも告げたが、さっきのことと言い、どうしてこのタイミングで?
いぶかしく思いながら見返していると、銀縁眼鏡は続けた。
「黙秘しているということは、さっきあなたが私に話したことしか取り調べでも言っていないし、向こうからもそれ以外のことは言われていない。そうですよね?」
「ええ、そうですよ。弁護士を呼ぶまではもう一切喋らないと言ったら、簡単に引き下がって取り調べも直ぐにやめたから、少し拍子抜けしたぐらいです」
「なるほど……」
弁護士はそう言って眼鏡を取ったなり、しばらくそれをブラブラともてあそぶようにしている。やがてそれがピタリとやんだ。唇の端が上がり、ほくそ笑んでいる。
「おかしいとは思いませんか?」
そう聞かれた。
何を今更……。おかしいに決まっている。
「そう思ったから、あなたを呼んだんじゃないですか。あるはずのない合鍵は出てくるし、コップから僕のDNAは検出されるし」
憮然として答える。
「あなたのアパートから合鍵が発見されたということは、いわゆる家宅捜索をされたということですね」
「まあ、そうでしょう」
「家宅捜索をするには、事前に裁判官から許可状をもらう必要があるんですよ。しかし元はと言えば、あなたを疑うに足るような証拠なんて、合鍵が出てくるまでは皆無と言っていいほどない。こんなケースでどうしてそんな礼状を出すことができたんだろう。それに警察も警察ですよ。随分乱暴な捜査をやっている。あなたの立ち会いなしにやっているんだから」
ふーん、そんなものなんだろうか……?
今度は、こっちが他人事のように感心していた。
と、その時だった。
──そんなもんですよ
その声は、突然、頭の中に響いてきた。驚いて弁護士の顔を見ると、またニヤニヤ笑っている。
「ふーん、やはり同類だったか」
今度は声に出して言う。
「いやあ、前にも一度そういう男に会ったことがあります。しかし、あの男は駄目だった。あれは能力なんてものじゃない。考えていることがそのまま外に漏れてしまうだけの、単純バカでした。
そこへいくと、あなたは違うようだ。あの男よりはよほど思慮分別があるし、自制力もある。依頼者と弁護士は、何よりも信頼関係が大事ですからね。
そうは言っても、こんな能力が実際上の役に立つなんて、全く思ってませんよ。私はあくまでも弁護士ですから。でも、こうしてほんの悪戯心で使ってみたりすることもあるんですよ。失礼しました、本題に戻りましょう。おかしいことは、まだまだありますからね」
この作品はフィクションであり、実際にあった事件若しくは実在する人物又は団体等とはいっさい関係がありません。




