四百七拾五 帰ってきた石児童
「どうぞよろしくお願いします」
おれは彼らに頭を下げると、とりあえず家の中に入った。とにかく暑くてたまらない。冷蔵庫から麦茶を出してゴクゴク飲んだら、生き返ったような気がした。
あの人たちも中に呼び入れて、お茶を出そうかとも思ったが、そんな気を利かすような柄でもない。それに彼らだって、冷やした麦茶ぐらい水筒に入れて持参しているだろう。
おれはまた応接間に移動してソファに腰を下ろすと、扇風機のスイッチを入れた。さて、これからどうしたものか。中野には、もうおれの出番はないと言われてしまったが、それなら警察が京子を無事に保護するまで、ここでじっと座して待つしかないのだろうか。
松尾憲治と川辺一谷は、言ってくれた。おれは決して何もしなかったわけではなく、一石を投じた。投じた石は小さかったけれども、生じた波紋は大きかった。次に事態がどう推移するのか、それを見極めてから次の一手を打てばいいのだと。
しかし、次に事態が大きく動くとすれば、それはやはり警察が、あの〈ホテル・キューミノン〉に強行突入する時しかない。それで彼女の身柄が無事確保されれば、一件落着だ。
だが、もし失敗したら? 彼女を取り返すどころか、片桐勇司に殺されでもしたら? 奴はまともな人間ではない。魂が竜尾身に乗っ取られているのだ。或いは竜尾身そのものかもしれないのだから。
竜尾身とは、人間たちの怨みが集積した妖怪である。トカゲの尻尾切りのように主君や上司によって罪を着せられた果てに、斬り捨てられてしまった人間たちの──。
爺ちゃんによれば、もっとも凶悪な妖怪と言ってもいいらしい。なにしろ、もとは人間なのだから。世の中で人間ほど恐ろしいものはない。
「重いかい?」
背中で不意に声がした。石児童だった。
「はて、おれは確かお前を、百年杉の根方に打遣ったはずだが。いや、火事で焼け死んだんじゃなかったのか?」
「何を寝ぼけたことを──。それに言ったはずだぞ。おれはお前にしがみついたまま、これからもずっと離れるつもりはないからなと。それよりお前は、さっきの問いにまだ答えてないぞ。どうだい、重いだろう?」
「ただでさえ暑苦しくてたまらないんだ。少しの間だけでもいいから、おれから離れてくれないか?」
「そうやって、お前はいつもその時々の課題から目を逸らそうとしてきたんだ。さあ答えろ。人生は重いかい?」
おれはとうとう根負けして答えた。
「ああ、重いなあ。人生って、どうしてこんなに重いんだろう?」
「やっと認めたか、この天邪鬼め。家康も言っているぞ。人生は重い荷物を背負って、高い山を登るようなものだ、とか何とか。それにリルケも言っている。困難なもの、重いものの中にこそ真実がある。だから人間は、その重いものの中にこそ自らを積極的に委ねるべきだと。確かそんなことじゃなかったかな? さあ、これからどうする、家康? いや、欽之助」
「いや、急にどうすると言われても……」
「お前はいつもその肝心なことから目を逸らしては、一時的に軽いもの、安楽なもののほうに身を置いてやり過ごしてきたんだ。子供が夏休みの間中ずっと遊び呆けているみたいにね。でも、始業式が近づいてきた頃に突然思い出すんだ。宿題を全くやっていなかったことに。でも本当は、心の片隅ではそのことを意識していた。嫌だなあ、いやだなあと嘆くばかりで宿題には決して手を付けようとはしなかった。
でも今のお前は違う。ちゃんとそいつに向き合っているじゃないか。松尾の言うとおりだ。一歩前進したんだよ。でも、ただ向き合ってばかりじゃ不可い。次に動かなければ」
「うーん……」
「じゃあな」
「えっ?」
「おれもお前にくっついてばかりだと暑苦しくてたまらないから、ちょっとどこかで涼んでくる」
「おい、なんだよ。人を散々たきつけておいて」
しかし、石児童からはもう何の反応もなかった。
その代わりのように、また外からガラガラガラッと大きな音が響いてきた。窓から覗くと、いつの間にか作業員たちも増えていて、大きな声でやりとりをしている。そうしないと、機材の音で互いに聞こえないのだ。作業員たちは一様にヘルメットから垂らしたタオルを、頭の後ろで括っている。かっこいい! 一人は、麦わら帽子の丸い部分だけくり抜いたのをヘルメットに被せている。少し変だけど、やっぱりかっこいい! 男は、いや人間はひたむきに働いている時が一番魅力的だ。いや、それもまた違う。働いてなくても、たとえ病気の時であっても、何かとひたむきに戦っていさえすれば、人は輝いていけるのではないだろうか。たとえその相手が病であっても、死であっても、人は最後まで尊い。
さて、肝心要のこのおれはどうしよう。いつまでもここでグズグズくよくよしていても始まらない。暑いしうるさいし、とりあえずここを出ていこう。と言っても、昨日みたいに優雅にのんきに図書館で過ごすわけにはいかない。京子があんな状況に置かされているのだから。
そうだ、寅さんに昨夜のお礼を兼ねて、中野と警察の動きも報告をしたうえで、今後のことを相談してみよう。川辺の言うように、おれ一人で何もかも解決しようなんて、どだい無理なことなんだから。
おれは庭に出ると、さっきのワイシャツ姿の男に声を掛けた。
「僕はこれからちょっと出掛けてきます。暑いですから、休まれるときはどうぞ中をお使いください。エアコンもなくて申し訳ないですが、扇風機ならありますので。それから冷蔵庫には麦茶もたっぷり冷やしております。どうぞ御自由に飲んでいただいて構わないですから」
この作品はフィクションであり、実際にあった事件若しくは実在する人物又は団体等とはいっさい関係がありません。




