四百七拾参 夢の終わり〜竜宮城、炎上
突然、ドドドッ、カッカッカという大きな音が、家の外から聞こえてきた。大勢の人間の足音、それに馬の蹄のような音である。これはただ事ではない。
おれは咄嗟に廊下に飛び出し、窓硝子越しに庭のほうを見下ろした。すると鉢巻をした捕方たちが、それぞれ提灯を掲げながら「御用だ! 御用だ!」と大声を上げはじめる。
与力や同心らしい者たちのほかに、ひときわ堂々とした武士が一人、馬上にあった。陣笠に羽織袴という出で立ちである。羽織の下は黒い防具のようなものを身につけている。馬上からこちらを見上げながら片手を上げると、捕方たちが二階を目掛けて次々と梯子をかけはじめた。
たちまち駆け上がってきたかと思ったら、いきなり木槌を振りかざした。すわ! 反射的に廊下に伏せる。ガッシャーンという音とともに、破片がおれの背中に飛び散る。捕方はおれの背中越しに廊下に飛び下りた。他の者もそれに続く。同じようにほかの窓からも、次々と飛び込んでくる。
それとは別に階段からもドカドカドカッと駆け上がってくる音がした。与力や同心たちに続いて、最後に陣笠を被った武士が姿を現した。一同を見回しながら言う。
「警察庁刑事局長、深見英一郎である。お前たちは完全に包囲されている。皆、神妙にいたせ」
しかし、おれは深見英一郎なんて知らない。どう見ても、中村吉右衛門である。
確かに残りの捕方たちがまだ下にいて、家の周りを取り囲むように待機しているし、そのまた周囲は白い防音パネルでしっかり覆われている。これでは蟻の子一匹だって抜け出すのは無理だろう。
片桐は上目遣いに彼をちらっと見たが、何も言わずに平然と雪女に盃を差し出した。一升瓶からどぶどぶと注がれたものを飲み干すと、ようやく口を開く。
「はて、こんなことができるのは都道府県警察だけで、警察庁に捜査権限はないはずだが?」
深見はにやりと笑って答えた。
「ところが、我々8kチームには特別にそれが認められているんだよ。つべこべ言わずに大人しくお縄に付くんだな」
それを聞いて、片桐を除く一座の者は青ざめた。互いに顔を見合わせ、中には腰を浮かせて今にも逃げ出しそうにする者まである。
深見の号令が響く。
「それっ、逃がすな! 逆らう者は構わん、叩っ斬れ!」
大立ち回りが始まったが、片桐だけが悠然と酒を飲んでいる。その時、おれは偶然気付いた。片桐の真上辺りの天井板が、音もなくすーっと開き、その隙間から醜悪な顔が除いたのを。
あのような恐ろしい顔を、おれはかつて見たことがない。悪魔か、妖怪の類か。いや違う。あれは紛れもなく人間の顔である。そう思い至った時、おれは心底から戦慄を覚えたのだった。
天井裏の怪人はじっと下の様子を窺うと、片桐を目がけるかのように何かをぽとんと落とした。あっと思う間もなかった。目もくらむような光が閃くと同時に爆音が轟いた。何か赤い布切れのようなものが宙を舞ったかと思ったのが最後だった。
その後、何がどうなったのか分からない。気がついたら、すっかり焼け落ちてしまった家の前におれは佇んでいた。
人間たちはどこに行ったのか、そばにはただ、水かけ女と狸夫人がいるだけである。
「これでもう、私たちの居場所はなくなったね」
と、水かけ女が言った。
「そうだね」
と、狸夫人も力なく言った。
二人ともこちらを振り返ると、あばよと手を振ってすーっと消えていった。とうとう、このあばら家から誰もいなくなってしまった。
それにしても、最後に見たあの赤い布切れのようなものは、いったい何だったのだろう。片桐が羽織っていたものだったのか、それとも──?
おれは呆然と焼跡を眺めた。片桐は言った。京子もここにいたと。それなのに、おれには見えなかった。だから駄目なんだとも。おれが不甲斐ないせいで、彼女もこのあばら家とともに木っ端微塵となって消えてしまったのだ。
ふと気付くと、まだ白い煙で燻っている中に、小さな赤い炎がちらちら見える。近づいてみると、人形が燃えていた。赤い着物を着た人形が燃えている。エミーだ!
おれは慌てて駆け寄り人形を抱き上げると、片手でパンパンと叩いて火を消した。エミーはいつかのように悪態をつくこともなければ、その虚ろな瞳におれの姿を映すこともなかった。
とその時、黒焦げになった柱が折れ、梁もろとも崩れ落ちてきた。おれは咄嗟に背中で受けてエミーを庇った。背中に強い衝撃を感じたが、不思議に痛みはない。
ガラガラガラッ! 梁や天井板がさらに落ちてくる。おれは両手を踏ん張り、目を固く閉じて必死に耐えた。確かに木材や板切れが背中に当たる感触はある。それなのに痛みはない。
不思議に思って目を開けた。すると、ちょうど真下に京子の顔がある。眠っているようだったが、すぐにその目をぱちりと開いた。その大きな黒い瞳は最初こそ輪郭が定まらないようだったが、だんだんはっきりとしてきてようやく光を宿したかと思ったら、最後におれの顔が映った。しばし見つめ合う。
その刹那、ガラガラガラッとまた落ちてきた。えーい、いつまでもしつこい。何だ、あばら家のくせに。そう思ったところで目が覚めた。
この作品はフィクションであり、実際にあった事件若しくは実在する人物又は団体等とはいっさい関係がありません。




