四百六拾九 ふーあむあい?
ふと気づくと、防音パネルの直ぐそばに一人の幼童が佇んでいる。頭の天辺をちょん髷に結い、茶色っぽい着物をしどけなくきている。
あれはチョウヤッカイ……。
「おい、君! お姉さんが探していたぞ」
急いで声をかけたが、向こうはちらっとこちらを振り返っただけで、パネルの内に消えてしまった。
追いかけておれも中に入ったが、もう姿が見えない。相変わらずショベルカーが二台あったが、どちらも動いていなかった。
井戸は破壊され、瓦礫だけが積み重なっている。水かけ女がそこでしくしくと泣いていた。狸夫人が寄り添って慰めている。
声をかけようかと思ったが、狸夫人に任せることにして玄関に向かった。
中に入ると、座敷のほうはやはり雨戸も襖も開け放したままで、ショベルカーがアームの先端を床下に突っ込んだ状態で止まっていた。
玄関を上がってすぐ右が応接間で、その奥がダイニングキッチンである。台所から人の声がするので、おれは応接間を抜けてそこに行こうとした。
すると、なぜだか裃姿の中野十一が、一人でソファに座っていた。応接テーブルの上には、餅が山盛りとなった大皿がどかりと置かれてある。
餅は全てが半分ずつに切られてあって、中野はそれを片っ端から手に取っては、ムシャムシャと美味そうに食べていた。
おれに気づくと、「ふー、甘ーい」とため息をつくように言った。
「あなたという人は、いったい何者なんですか?」
あきれて問うと、向こうはそれには答えず、半分こにされた餅の一切れをを二本の箸でつまんだ。ふー甘ーい、とおどけたように言う。
おれは、ついかっとなった。
「ふざけている場合ですか?」
「Who am I?」
中野は半分この餅を見ながら、自問するようにそう言うと、そいつをパクリと口に入れた。それから、真っ直ぐにこちらを見た。
「ならば答えよう。我は政治屋にあらず。政治家なり。かつ、政とは自ら食することをもって、食を考えるものなり。而政治家とは、民の日々の食のためにこれに職を与うるものなり」
そう言って、完爾と笑った。
餅の隣には小さな竹籠が置かれてあって、これも山盛りのカボスが積まれてある。
中野は餅を食い終わると、今度はカボスの一つを取った。大きな手で器用におろしがねを使いながらカボスの皮をすりおろすと、一部を箸で掬って麺つゆに溶き入れた。
そばには、透明な硝子鉢にまるで流れるように盛り付けられたそうめんがすでに用意されてあった。
中野は、きれいな盛り付けが乱れないように用心しているのか、それを丁寧に箸で掬い取ると、下の方だけつゆにつけたのをチュルチュルっと口の中に流し込む。
「ふー、なんという滑らかさ、コシの良さだろう」
そう感嘆して、また箸で掬う。それを宙で示しながら、いきなりおれに尋ねた。
「君はこれが百本だとしたときに、この中の何本が国産小麦でできていると思うかね?」
「いや、いきなりそんなことを聞かれても……。何本ですか?」
「じゃあ、そばは? 盛りそばだろうが、掛けそばだろうが構わない。これが仮りに百本のそばだとしたときに、何本が国産のそばでできたものなんだろう?」
「いやあ、ますます分かりませんね」
「君は日本人なんだろうが! 日本の伝統食たるうどんやそばだというのに、君はその原料である小麦もそばも、その自給率さえ知らないというのかね?」
「じゃあ、どれぐらいなんでしょう?」
謙虚に聞き返す。
「質問に質問で返すんでない」
中野は怒って言った。
「いいかね? そばの場合は、自給率はおよそ20パーセント。すると、単純に言えば麺100本のうち20本が国産ということになる。
そこで小麦の場合だが、自給率は大体15パーセントぐらいだ。ところが用途としてはパンもあるし、麺もあるし、味噌や醤油用もある。そのうち麺用は30パーセントぐらい。しかし、麺と言ってもラーメンもあるし、パスタもある。だ、だから、そのうちのそうめんの割合から算出するとだな、えー100本のうち、……ん本が国産小麦でできていることになる。どうだ、分かったかね?」
そう言うと、またチュルチュルとそうめんをすすった。
「こんなことをしてる場合ですか。早くお嬢さんを助けないと」
ついに見かねたようにおれは言った。
「鬼平がいる。奴が8Kチームを率いて、娘を必ず助け出すさ」
中野はそう言ったきり、今度はカボスを次々とかじりはじめた。
俺はすっかりアホらしくなって、彼を置いてけぼりにすることにした。
ダイニングキッチンでは、女たちが忙しそうに立ち働いていた。
「ボッチャン、こんなにたくさんのお客様をお呼びするなら、前もってちゃんと言っていただかないと」
清さんが早速振り向いて、おれにお小言を言った。
米さんと美登里さんと早苗さん、それにさやかさんまでもが一緒になって、おれを睨みつける。
皆一様に割烹着やらエプロンやらを身に着けている。よくもこの狭い台所にこれだけの女たちが勢ぞろいしたものだ。
「清さん!」
懐かしさのあまり、驚いて話しかけようとしたら、邪魔ですよと追い立てられてしまった。
ダイニングテーブルに置かれた牡丹鍋や筑前煮などのご馳走を尻目にしながら、おれはその場をあとにした。
そんなことよりも、さっきから二階で話し声や物音がすることに、おれは気づいていた。
たくさんの客だって? おのれ、他人の家をいったい誰が勝手に──?
例の箪笥と兼用になった階段を、おれは怒りながらドスドスと昇っていった。
この作品はフィクションであり、実際にあった事件若しくは実在する人物又は団体等とはいっさい関係がありません。




