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四百六拾八 井戸の中にて

 落ち目、落目の欽之助が、本当に井戸水の中に落ちてボッチャンだ。笑うに笑えない。


 ブクブク上昇していく泡を見ながら、おれはなすすべもなく、ただ沈んでいくばかりだった。やがて泡も見えなくなり、周囲は真暗になった。


 しかし、いつまでたっても、井戸の底にたどり着かない。このまま地球の中心を突き抜けて、宇宙の果てまで放り出されてしまうような気さえした。そうしたら、彼女に再び逢えるかもしれない……。


 しばらく沈んでいるうちに、周囲がだんだん明るくなっていく。同時に視界も開けてきた。


 身体が急に軽くなったので、おれは平泳ぎの要領で手足を動かしてみた。すると、思いのほか簡単に水の中を移動できる。


 井の中の蛙が、ついに大海に泳ぎいでたのだった。遮るものとて何もない、ラムネの瓶のような青の中を、おれはすいすいと気持ち良く泳ぎ回った。 


 自由だ、と叫んでみた。天も地も、東西南北も何もない、果てしなく自由な世界だった。サンマもクジラもいなかった。海月くらげや深海の変な生き物にも出遭うことはなかった。誰もいないことをいいことに、ただ我独りあるのみ、とうそぶいてみる。虚しかった。


 そのうちおれは飽きてきた。苦痛にさえなってきた。こんなに苦しいなら、いっそのこと死んでしまおうと思った。でも、どうやって?


 何日もその方法を考えあぐねていると、向こうから黒い影が見えた。あれはサメなのか? サメなら食ってもらおうと思った。


 しかし、痛いのはイヤだ。おれの骨を噛み砕こうが、はらわたを食いちぎろうが、痛くないようにやってほしいものだ。


 おれはかねがね、治安維持法か何かで捕まって拷問などされようものなら、直ぐに吐いちまおうと固く決めている。吐くものがないなら、嘘でも何でもこしらえる。仲間を売っちまってもよいとさえ考えている。転向など朝飯前だ。それほどおれは、痛いのを恐れている。拷問するなら、その前に麻酔をしてほしいものだ。


 黒い影が近づいてきた。すわと、おれは目を閉じた。麻酔薬がないなら、せめて唾液か何かで催眠状態か仮死状態にしてくれ。生きたままバリバリ食われるなんてゾッとする。


 すると、すぐそばで声がした。

「何をぼんやりとしておる。さあ、わしの背中に乗るがいい」


 目を開けると、目の前にウミガメがいた。よく見ると、モンジ老さんである。

「さっき助けてくれた礼じゃ。遠慮せずともよい」


「はあ」

 せっかくそう言ってくれるので、彼の甲羅にまたがらせてもらった。しかし、むしろ製だから、甲羅の役目はとても果たせまい。さっきもボコボコにやられていたんだから。


 モンジ老さんは、おれを背中に乗っけるとスイスイ泳ぎはじめた。

「でも、どこへ行こうと言うんですか? ここは見渡す限り果てしない世界で、どこにも行けそうにないというのに」


「助けた亀に連れていかれるのは、竜宮城に決まっておるではないか。それに、果てしない世界とおぬしは言うが、それは人間の基準でな。わしらならどこへでもひとっ飛びじゃ」


「竜宮城ですって。まさか乙姫様が玉手箱をプレゼントしてくれるとでも? いや、僕は御免(こうむ)ります」


「乙姫様がいるとは限らんぞ。少なくとも、わしがそこで美女に姿を変えておぬしを待っているというようなことは、絶対にあり得ない。ましてや、そなたなんぞと契りを結ぶなんてことはな」


「僕のほうこそ願い下げですよ。しかし、乙姫様がいなくて、誰がいると言うんですか?」


「さあ、わしはよく知らんよ。竜宮城と言うからには、竜でもいるんじゃないかのお」

 と適当なことを言う。

「しかし、誰がいようがわしには関係のないことじゃ。とにかくわしは、助けてくれた男をそこへ連れて行く。昔からそうなっておるからな」


 いささか心許ない。しかし、あのままいつまでも海中に漂っているよりはましである。えいままよと腹をくくった。


 すると、彼の言うとおり、遠くに竜宮城らしきものが見えてきた。白亜の御殿で、周りがひときわ明るく輝いている。


 だんだん近づいてきた。白亜の……待てよ、あれは、工事の時に使う白い防音パネルではないか。


 中ではショベルカーが、庭と言わず、座敷の床下と言わず、地面を掘り返しているのだ。乙姫様を探すために──。


 もとい、旺陽女おうひめ様だ。旺陽女様は殺されて、ここに埋められているらしい。


 とうとう、おれのあばら家の前までたどり着いた。何のかの言っても、結局おれはここ帰り着いてしまうのだ。


「さあ降りるんじゃ、わしはこれから用事があるのでな」

 亀のモンジ老さんが言った。


「えっ、一緒に来てくれないんですか?」


「おぬしをここまで乗せてきて、すっかり腹が減ってしまったわい。これから図書館にでも行って、古今東西の古典文学でも渉猟し尽くそうと思う。では、さらばじゃ」

 そう言うと、悠々と泳ぎ去った。


 おれは防音パネルを前にして、呆然と彼を見送ったのだった。

この作品はフィクションであり、実際にあった事件若しくは実在する人物又は団体等とはいっさい関係がありません。

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