四百六拾七 坊っちゃん、井戸にボッチャン
「あんたは人が好すぎるものだから、火の粉を浴びちまうんだよ。さあ、上半身をお脱ぎ。また水垢離をしてあげよう」
水かけ女はそう言うと、つるべの縄に手をかけて井戸水を汲み上げようとした。
「はあ」
余り気乗りがしなかったが、断わるとまたどんな目に遭うか分かったものではない。おれは言われたとおりにすると、片膝をついた。
すると、「待ちやれ」という声が聞こえてきた。顔を上げると、がに股で杖をついた小柄な老婆が立っている。
紫色のチョッキに、茶色のモンペ。足には草履を履いている。この神社の宮司、登世さんだった。
登世さんは厳かに言った。
「その男は、私に引き渡してもらおうぞ。さすれば悪いようにはせぬ」
「何だって?」
水かけ女は、井戸の縁でつるべを持ったまま、逆らうように言った。しかし、登世さんの返した鋭い一瞥に恐れをなしたのか、「わ、分かったよ」とだけ言って、その場を離れた。
「行こうか」
狸婦人を促すようにして、その場を去ってゆく。チキショー、あのババアめ……などと二人でひそひそ言っている。
傘骨女と雪女は、モンジ老さんを追いかけていったのか、どこかに消えていた。
登世さんは妖怪どもを見送ると、上半身裸で屈んでいるおれを見下ろしながら言った。
「この馬鹿者めが。あれほど陽女様を離してはならぬと言ったのに。あの方にはこの由緒ある印鑰神社を再興し、この地域を繁栄させるという大切なお役目があったのじゃ。それをおぬしが不甲斐ないばかりに。──ええい、こうしてくれよう」
杖を振り上げる。
「うっ!」
避ける間もなく、裸の背中に強烈な一撃を浴びせられた。
「痛いか? さもあろう。これは檳榔樹から作った杖じゃからな。固く締まっていて、そこらのカーボン製とは訳が違う。お主の背骨など、いとも簡単に砕いてしまうわ。いや、お主には骨など最初から無かったも同然じゃわい。いっそのこと粉々にしてくれようぞ。えい!」
「あうー!」
おれは井戸の縁に両手でつかまりながら、必死に耐えた。
あん、もっとお願い……、なんてことは決して口走らなかった。しかし、こんな光景が前にもあったような気がする。
「よし、もう一度だ」
登世さんが再び杖を振り上げる気配がした瞬間だった。
「待って、お婆ちゃま!」
という声がした。
やれやれ、今度はいったい誰なんだ。そう思って振り向くと、小学生ぐらいの女の子が立っていた。
ポニーテールに水色の振袖姿。しかし、着物の丈は膝までしかない。チョーナンカイだ!
女の子は言った。
「お婆ちゃま、その男の後始末は私めに任せてくれないかしら」
「おお……」
登世さんは、しばし目を瞠るようにして、女の子の顔を凝視していたが、やがてはらはらと涙をこぼしながら言った。
「お嬢ちゃまでしたか。よくぞお帰りなされた。この婆は、どれほど首を長くしてお待ち申し上げてきたことか。よござんす。あとはお任せしましょう」
そう言うと、がに股の足でスタスタとその場を去って言った。
「さあ行くよ。まず第一問」
チョーナンカイは、地面に落ちていた二本の木の枝を拾い上げると、それを十字に構えて言った。
「あたいは今どこにいる?」
「ま、待ってくれ。逢ったとたんに問題を突きつけるのか? だが、答えは超簡単だ。君は今、そこにいる」
「不正解だ」
彼女は不機嫌そうに答えた。
「あたいはね、そこではなくここにいるんだ。あんたが今いる、この同じ場所にね。だから、あんたの答え方は、『君は今、ここにいる』が正解だ」
「む、むむ……」
「次、第二問め。あたいは、どこにいこうとしている?」
「そんなこと分かる訳がないじゃないか。自分の課題を他人に押しつけるんじゃない」
「それも不正解だ。他人の課題を自分のものとして一緒に考えないと不可いときもある。それが今なんだ。だから正解は二問合わせて、『君は今ここにいる。そして、もうどこにも行かない』だ」
「…………」
「第三問め。そして、これが最後の問題だ。これができればあんたを解放してやる。もしできないときは──」
「できないときは?」
おれはゴクリと唾を呑み込んで尋ねた。
「まあ、それはいい。では問題だ。あたいの弟はどこにいる?」
「そ、そんな……。君の弟がどこにいるかなんて、そんなことが僕に分かる訳がない。第一、君は前に逢った時に、今では弟だったか、息子だったか分からなくなったと言っていた。それを僕に答えろだって? しかも君は子供じゃないか。子供に子供がいるわけがない。だからあえて答えるとすれば、君には弟も息子も初めからいなかったんだよ」
「I am a child, I have a child.」*
チョーナンカイはそう呟いた。
「あたいの一番聞きたくない答えだった。だから最終試験も不合格。覚悟するんだね」
そう言うと、二本の小枝を構え直した。
いや、小枝なんかではない。焼け火箸だ。真っ赤に焼けた火箸の一本をおれの喉元に突きつけるようにしながら、少しずつにじり寄ってくる。
最後に「やーっ」と突いてきた。おれはのけぞるようにしながら間一髪それをよけたが、弾みで井戸にそのまま転落してしまった。
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この作品はフィクションであり、実際にあった事件若しくは実在する人物又は団体等とはいっさい関係がありません。




