四百六拾参 夢の始まり〜赤い電車
そうこう考えているうちに、ようやくおれは眠ってしまったらしい……。
おれは堤防の上を一人で歩いていた。雲は重く垂れ込め、川の水は黒かった。
川岸の辺りを見ながら、じっと耳を澄ましてみる。しかし、いくら耳を澄ませても何も聞こえてくることはなかった。
仕方ないので、川岸に向かって叫んでみる。
「アスコココー。明日此処来ー。明日ここに来ーい!」
せめてこだまでも返ってこないか、じっと待ってみたが、反応はない。
今度は、キョウコーと呼んでみた。
「京子ー。今日此処来ー。今日ここに来ーい!」
やはり返事はない。
もっと川の近くに行ってみようかしらん。そうしたら声が聞こえるかもしれない。
そう思って下に降りたら、笹の茂みがざわざわと不気味な音を立てる。
おれは逃げるようにその場を離れた。すると背後から小さな声が聞こえた。
意気地なし……。
おれは逃げた。必死で堤防を駆け上がった。ハーハー息をしながら、再び歩き出した。もう川は見ない。ずんずん歩く。もう振り返らない。
そのうち空が晴れてきた。どこからか雲雀の声がする。見上げても姿は見えない。
何だか辺り一面いい匂いがする。これは花の匂い? 見回しても花は見えない。
もう大丈夫だろうか?
思い切って川を見る。川の面は明るくキラキラ輝いている。しかし、お日様は見えない。空の青に溶け込んでいるのだ。
うららかで気持ちがいい春の日。色と音と、そして匂いだけの世界。でも、何かの感覚が足りない。何が?
そんなことはどうでもいいさ。気持ちさえ良ければ。何だか物憂いけれども、うっとりと気持ちのいい世界──。
おれは立ち止まり、大きく息を吸い込む。すると、石児童を背負っていないことに気づいた。
石児童の背中にはランドセル。ランドセルの中には、教科書やノートなどと一緒にしわくちゃになった宿題のプリントがあったはず──。
ああ、もうこれにも悩まされなくて済むのだ。
晴々としながら、再び歩き始める。
自分の課題さえ背負えない人間が、他人の課題まで背負えるわけがないのだ。
これでいいのだと呟いてみる。名言だ。バーカボンボンと今度は口ずさむ。
おれもダボシャツに腹巻姿で、放浪の旅に出てみたいな。草の茎なんかをキザに口にくわえてさ。
だが、本当にそれでいいのだろうか?
しばらくしたら、前方に赤い鉄橋が見えてきた。赤い鉄橋を赤い電車が通り過ぎる。
堤防が尽きたので、電車の行った方角に足を向けた。
シャッター街を抜けると、無人駅があった。ホームで待っていると、また赤い電車がコトコトやってきた。
少しためらいながら乗り込んだ。一両しかないから、結構混んでいる。皆一様に黙って俯いていた。
電車は直ぐに走り出す。そのうち次の駅が見えきた。田んぼと畑ばかりに囲まれている。
駅のすぐ左手には駐輪場。土がむき出しで、周りに菜の花が咲き乱れている。
何だかちっぽけな駅だ。しかし、何となく見覚えがある。
電車はやがてホームに停まり、ドアが開いた。しかし誰も降りるものはない。こんな見すぼらしい、うらぶれたような駅に誰が降りるものか。
電車は再びコトコト走り出す。次の駅が見えてきた。田んぼと畑ばかりに囲まれている。
駅のすぐ左手には駐輪場。土がむき出しで、周りに菜の花が咲き乱れている。
何だかちっぽけな駅だ。しかし、何となく見覚えがある。
電車はやがてホームに停まり、ドアが開いた。しかし誰も降りるものはない。
電車は再び走り出す。次の駅が見えてきた。周りは田んぼと畑ばかりだ。ホームに着いたが、誰も降りない。
また次の駅が……。
こんなことをいったい何億回繰り返したろう。
おれはとうとう倦んでしまって、隣の老人に語りかけた。
「この電車はどこに行くんでしょう?」
「どこにも行けるし、どこにも行けない」
老人はそう答えたが、直ぐにあっと声を上げた。おれの手元を見て言う。
「あんた、切符を持っているじゃないか。わしにくれないか?」
「何だって?」
「何故この男が……?」
それまで黙って俯いていた乗客たちが顔を上げ、一斉に騒ぎ出した。
「私にそれを──」
通路を挟んで、向かいの席に座っていた女が言った。
「幼い子供がたった一人で待っているんです。ああ私ったら、なんであんなことを──」
「どうかなさったんですか?」
とおれは尋ねた。
「DV夫から逃れて隠れていたんですよ。でも職には就けないし、生活保護の申請さえできないものだから……。どうか、お願いです」
「いや、私だ」
女の隣にいた男が言った。
「私にそれをよこしてくれないか? あんたは一人じゃないか。私には百人の従業員がいるんだから。それなのに私は逃げた。責任を放棄してしまったんだ」
すると、ほかの男が言った。
「俺にくれ。ほかの皆んなは大したことはないんだから。俺は人を殺しちまったんだ。やり直したい」
ほかの乗客も口々に言う。
「駄目よ、私に──。その切符さえあれば、この電車から降りることができるんだから」
とうとう皆んなで席を立って、俺の周りに集まった。よく見ると、誰の顔も血だらけになっている。
この作品はフィクションであり、実際にあった事件若しくは実在する人物又は団体等とはいっさい関係がありません。




