四百六拾弐 人形の消息
「そうです。桐塑市松の人形なんですが……」
「ああ、あれなら知っている。どこで手に入れたのかは知らないが、あいつめ、いい年をしてあの人形に話しかけたりしていたからな。いや、私の前ではそんなことはしなかったが、たまたま部屋の外まで話し声が聞こえてきたから、誰かお客さんでもあったのかなと思ったら、どうもあの人形と話をしていたらしいんだ。まあ、それほど大事にしていたということなんだろう」
「今は家にありますか?」
「いや、ない。京子が持って出たんだろう。これまでもちょっとした旅行をする時は、大きなカバンに入れて持ち歩いていたからな。彼女が行方不明になったあとに、何か手がかりがないか部屋を調べてみたが、確かその人形はどこにも見当たらなかったと思う。──で、その人形がどうかしたかね? ひょっとして、君があげたものだったのか?」
「あ、いえ……」
まさかあの人形が、元わらわんわらわで、おれと京子に対してだけは口を利くことができるというようなことはとても言えない。
「あいつめ、すっかり私を騙しおって。金本君と結婚するなどと言うものだから、私は大喜びしていたんだ。それで大枚をはたいて結婚衣装まで整えてやった。それなのにあいつめ、一部を破いて、あの人形の着せ替えをさせるために使ったんだ。──よっぽど君のことが好きだったんだろうな」
真顔で言う。
「いや、それは──」
おれはつい、あのクリスマス・イブの夜のことを思い出して、甘酸っぱい気持ちにさせられたのだった。
「だが、別れたそうじゃないか。君には愛想が尽きたと京子が言っていたぞ」
中野はそう言ってにやりと笑った。それから二人の秘書を引き連れ、ドアの外に消えていった。
最後に後頭部をガツンとやられてしまったような気がした。呆然としていると、マスターが言った。
「あの人の言ってたそうめんを食うかい? 失恋をしたときは、腹を満たすのが一番だからな」
更に追い打ちをかけられる。
川辺が苦笑しながら言った。
「まあ、あの人がああ言ってるんだから、京子さんはきっと大丈夫だろう。私の知る限りでは、彼が一度口に出したことで、そのとおりにならなかったことはなかったから」
「そうだといいですが……」
力無くおれは言った。
彼女がおれの元を去ってしまったのは仕方がない。だが、何としても無事でいてほしい。心配なのは、人に何を話しかけられてもただへらへら笑っているだけだということである。いったい片桐に何をされたのだろう。
わらわんわらわは──、エミーは、間違いなく京子とともにいる。さっきは本当に藁をもすがる思いで、そのことを中野に確かめたのだった。あれほど爺ちゃんに、決してあやかしの力なんぞ頼るのではないぞと言われていたのに。
しかし、よくよく考えてみたら、エミーにそんな力はない。もともとあのあばら家で清さんの帰りを長いこと待っているうちに、奈美さんの霊に取り憑かれてしまった、ただの弱い人形なんだから。
おれは再び悲愴感に襲われながら、それでもマスターの作ってくれたそうめんを腹一杯食べて、帰途についたのだった。
床についたものの、苦しくてのたうち回るばかりだった。とても眠れるものではない。京子と出逢ってからのことを次々と思い出した。最後にクリスマス・イブのことをまた思い出した。
あの日、彼女を引き留めさえしていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。彼女は、それまで長く伸ばしていた髪を切って、おれのもとへ来た。それなのに、おれのほうにはそれだけの覚悟ができていなかった。だからこそ、彼女が帰っていくのを、ただすごすごと見送ることしかできなかったのだ。
男らしくなくてもいいから、泣いたり追いすがったりしてでも彼女を引き留めるべきだったのか。それともタチュユキさんの言うように、強引に押し倒してでも……?
タチュユキさんは、流れだの、呼吸だの、間合いだの言うが、そんなのはおれには分からないよ。自分勝手な思い込みかもしれないじゃないか。
あの夜、おれは京子を抱いた。しかし、文字どおり抱いただけだ。彼女の上着を脱がせようとして、拒まれてしまった。おれは、彼女の裸の胸を直接この目で見てみたかったのだ。
彼女の胸には、発作的に金属製の菜箸か何かで突いた痕があるとのことだった。それを見たかった。それを見なくしては、彼女が本当に自分のものになるような気がしなかったのだ。愚かにも彼女を所有したかったのだ。それを彼女か敏感に察知したのかもしれない。
おれは漱石に憧れて東大の赤門を潜った。文芸サークルに入って、小説の新人賞などに応募しまくったが、ボツばかりだった。それでみんなからボッチャンなどとあだ名を付けられていい気になっていたが、おれは決して坊っちゃんとは違う。
直ぐに腹を立てて喧嘩っ早い所は似ているかもしれないが、坊っちゃんのような竹を割ったような気性ではない。いつもグズグズくよくよしているばかりで、何にもできない、落ち目、落目の欽之助だ。
この作品はフィクションであり、実際にあった事件若しくは実在する人物又は団体等とはいっさい関係がありません。




