四百六拾壱 片桐という男
川辺が急に思い付いたように言った。
「考えてみると、松尾がああいう情報を仕入れるきっかけになったのは、もともとあんたという人間に興味を持ったからだ」
「ほお」
中野はきらりと目を光らせる。
「それであんたの周辺をいろいろ調べ始めた。ところがどうしても素性のよく分からない人間がいた。それが片桐だったんだ。そもそもあんな男を、どんな縁であんたは雇うようになったんだね?」
「答えは簡単だ。別に隠すこともないさ」
中野はさらりと答えた。
「それは、とっつあんの紹介だったからだよ」
「秘書の矢部さんか」
「そうだ。彼がある日あの男を私に引き合わせて、頭を下げて頼むんだ。何も言わないで、この男の面倒を見てくれないかと。それで私は咄嗟に、これは訳ありだなと思った。とっつあんは先代の中野菊松とともに苦労しながら、あの会社を興した。二人とも特攻崩れで、戦後の闇市の中を散々暴れ回ったらしい。たぶんその時の女にでも産ませた子供なんだろうとね」
「そのことは確かめたのか?」
川辺が重ねて聞く。
「そんなことをするものか。約束なんだから。こんな私が政治家になれたのは、とっつあんのおかげだし、恩義も感じている。私の三番目の親父のような存在だ。その彼の頼みなんだから、断る訳がない。その男の過去など一切詮索することなく、直ぐに秘書にしてやったよ。
それに、もう一つ理由がある。それは、私がその男を気に入ったからだ。荒んだ目をしていたが、逆にそこに惹かれてしまった。こいつはものになるとも思ったんだ。そしてそれは、ハズレてはなかった。
当時私は二期目を目指していてね、いろんな中傷やら妨害やらあって、非常に苦しい時期だった。そんな時に彼は本当によく働いてくれた。特に私のほうから具体的に何かを指示したわけではないのに、彼が動くと物事が見事に解決するんだ。いきおい、何か困ったことがあると彼に頼るようになった。いや。私だけではない。周りのスタッフ皆んながそうだった。困ったときの片桐さん、片付け屋の片桐さんなどとおだててね。とっつあんも自分が紹介した手前大喜びでね、後継者にどうだろうなんて露骨に口にするようになった。
実は私もその気になっていた。娘があんな風で、政治には全く興味を示さなかったからね。それに、彼は若い頃の私に似ているような気もした。切れ者だし、磨けば光ると思っていたんだ」
「あの男本人は、そんな気は全くなさそうでしたよ」と、おれは言った。
「あなたが政治家として大きな仕事をなし遂げることができるように、ただそのためだけに自分の身を捧げるんだと、確かそんなようなことを言ってましたが」
中野は無言のまま、空のグラスを持ち上げた。追加の注文をするのかと思ったら、カタンとそれを置いて言う。
「あいつは純粋過ぎた。純粋な人間が政治家なんぞ志すべきではない。さもないと己自身を傷つけてしまうばかりか、身の破滅を招きかねないからな。だから私の後継者どころか、この私からも離れたほうが良かったんだ。もっと早くそうさせてやるべきだった。ここに至っては、もう手遅れなのかもしれない。だが、私はあいつを赦してやりたい」
珍しく気弱なことを言う。
しかし、自分の言っていることの矛盾に気付いたのか、直ぐに付け加えた。
「あくまでも京子を無事に取り戻すことができたらの話だ。もし彼女の身体に1ミリでも傷をつけてみろ、奴の身体をバラバラに切り刻んでやる」
おれはそれを聞いて、カジノ場に現れた京子が、その様子から推し量るに薬か何かで精神が冒されている可能性があることを思い出し、改めて胸がえぐられるような焦燥感に苛まれるのだった。
「さて──」
中野はそう一声発すると、立ち上がった。
「私はこれで失礼するよ。私はまだ警察といろいろ相談することがあるんでね。それから落目君──」
こちらを見下ろしている。やはり年齢の割には、大変な高身長である。
中野は続けた。
「君とはまあいろいろあったが、赦してくれたまえ。終わり良ければ全て良しだ。大丈夫、京子は必ず助け出す。これも君のおかげだよ。もう会うこともないだろうが、最後に礼を言いたかったんだ。本当にありがとう。ああそうそう、川辺さんよ──」
今度はそちらに目を向けて言う。
「松尾君の身柄は拘束したから」
「いったい、どんな理由で?」
川辺が驚いて尋ねる。
「クラブのホステス殺しだ」
「何だって?」
川辺だけでなく、皆も目を瞠っている。
「何、容疑は何だったでっち上げられるさ」
澄まして答える。
「彼に下手に動かれると、警察の邪魔になるからな。それに彼を守るためだ」
「どういうことなんだ?」
川辺が重ねて尋ねる。
「考えてもみたまえ。例の女を殺したのは、どう見ても〈十一人衆〉の仕業だよ。彼の身だって危ない。だから、警察で保護するんだ。これで分かったかね? だが喜ぶといい。突入の日には釈放してやるだけでなく、現場に同行させてやる。もちろん松尾君だけを。彼にスクープを取らせるんだ。そうなったら君も鼻が高いだろう。では、おさらばだ」
皆が唖然としている中を悠々と引き上げていく。途中でジローさんの肩をポンと叩いて言った。
「いい声だね。また今度聞かせてもらえるかな?」
「ああ、いいよ。またいつでも来るといい」
ジローさんはピアノを弾きながら、相手を見もせずに答える。
「あっ、そうだ忘れていた」
大きな身体で振り返る。
「アーメン、そうめん、冷やそうめんだ。カボスの皮を薬味にして食べさせてもらうはずだったが、もう時間がない。今度頼むよ」
こんなセリフを吐くとは、やはり爺さんに違いない。
「ああ、いいですよ。お待ちしています」
マスターが答える。
「あっ、す、済みません」
おれは慌てて立ち上がった。
「お嬢さんは、人形を持っていませんでしたか?」
「人形?」
この作品はフィクションであり、実際にあった事件若しくは実在する人物又は団体等とはいっさい関係がありません。




