四百六拾 人間なんて
「しかし、片桐は──」
そこで言いよどんでしまった。
「片桐か……」
中野は、じっと探るようにおれを見ていたが、やがて言った。
「何が言いたかったんだ? 君がいつまでもグズグズして煮えきらないから、私のほうから言わせてもらうが、あいつだけは許さない。あれほど目を掛けてやったというのに、恩を仇で返すような真似をするんだからな」
それでおれは、とうとう言ってやった。
「彼は心からあなたを尊敬していました。敬慕していたと言ってもいい。それをいいことに、あなたは彼を汚れ役に使った。時には危ない仕事も。そうやって散々便利に使うだけ使ったあげくに、最後は邪魔になったっていうんで、無情にもクビにして切り捨てたんです。怨まれて当然じゃないですか?」
「泣いて玉ねぎを切るっていうじゃないか」
中野は相変わらずこちらを睨め回すようにしながら、訳の分からないことをことを口走った。
「え?」
訝しんでいると、
「いや、馬鈴薯だったかな?」
そう言ってとぼけている。
「泣いて馬謖を斬る、だろう?」
川辺が口を挟む。
「そうとも言ったかな?」
人を食うにもほどがある。
「これでも私は片桐のことを評価もし、また感謝もしていたんだ。しかし、これ以上私に付き従ってばかりでは、彼のためにならない。それで心を鬼にしてクビにした。だが、いくらそのことを恨んでいるからって、関係のない娘にまで手を出していいものか。それとも君は、私がそれに値することをしたとでも思っているのか? 彼の気持ちを慮ると、娘に対してやっていることは仕方ない、理解できるとでも? なるほど、君の彼女に対する気持ちはそれぐらいのものだったんだ。してみると、君はクズだな?」
最後は怒涛のように猛攻撃してきた。
「いえ、まさかそんなことは……」
こいつは敵わない。おれは何も言えなくなって、俯いてしまった。
そんなおれに、さらに容赦のない視線を浴びせかけてくる。
──違う! おれの言いたいことはそんなことじゃない。
「分かっている」
即座に中野がそう言ったので、おれは驚いて顔を上げて彼を見た。
「盗聴してたんだから、君たちの話していたことは全部聞いていたよ。あいつは妖怪だって言うんだろう? リュービシンだって?」
「そうです。竜の尾っぽの身体と書いて、竜尾身というんです」
おれは気負いこんで言った。
「散々主人に尽くした挙げ句に、トカゲの尻尾切りのように切り捨てられ、もしくは罪を着せられた人間たちの怨念が積み重なっていくんです。そして、それが妖怪と化して、人間に仇をなすようになるんです。だから、これほど凶悪な妖怪はいない。一筋縄ではいかない奴です。この世の者ではないんだから、いくら警察でも手には負えないかもしれないじゃないですか。もし突入に失敗したら、京子はどうなるんですか? そこを私は一番心配しているんです」
「京子は私の娘だ。余計な心配は無用。たとえ失敗したとしても、私が責任を取るし、その覚悟もしているさ。それにだ──」
中野はじっとおれから目を逸らさずに言った。
「仮に奴が妖怪だとしても、人間に適う妖怪なんてあるものかね。コーヒーボーイ君も言っていたじゃないか」
「えっ?」
「妖怪が、いったい何人の人間を取って食った? たかがしれているとね。もっとも、私は人を食ってばかりだが。まあ、そんなことはどあでもいいや。私も彼の言うとおりだと思う。いったい人間は、たった一発の爆弾でどれだけの人間を殺してきたことか。これからもそれが続くんだ。チンプーさんもそれはそれは心配して、世界に向かって盛んに警鐘を鳴らしているではないか。この際、ピンチーさんやプラトンさんらを含む世界の首脳が直接顔を突き合わせて、肝胆相照らし、叡智の限りを尽くして解決策を話し合ってみるべきだな。哲人政治とは言わんが」
「いや、それとこれとは別ですよ。私にとって現下の問題は、いかにして彼女を無事に救い出すかどうかですよ」
おれが熱心にそう言ったにもかかわらず、相手からは「君に何ができる?」と一蹴されてしまった。
「ふん、ちゃんと自覚はしているんだな? 確かに小説家まだきのニートで、女一人助け出すことのできない人間が、世界の問題になんぞ口を出すべきではない」
どこまでおれを冷笑すればいいんだろう。
「それにだ──」
また同じ言葉を吐いた。
「人間が深淵を覗く時、深淵もまた人間を覗いていると言うではないか。そりゃあそうだろう。人間そのものが深淵なんだから。深淵が光を呑み込んでいる。光は深淵を突き出てしまおうと一瞬の煌めきを見せるが、深淵が直ぐにそれを包み込む。人間存在はその繰り返し、せめぎ合いなんだ、私だってそうさ。私はそんな自分が怖い。だが一方では、そういう自覚のない人間は、政治なんかやっちゃあ不可いと思っている。だから、あいつは駄目だ。政治なんかには決してかかずらっては不可い」
マスターは立ったまま後の棚に背中を凭れ、じっと腕組みをして聞いていたが、ここで久し振りに口を開いた。
「あいつとは、片桐さんのことですか?」
「そうだよ。あいつは純粋過ぎるんだ」
中野がそう答えると、マスターはおれに目配せをした。それでおれは思い出した。彼が片桐のことを純粋バカだと本人に言い放ったことを。
中野は続けた。
「光は深淵から抜け出して逆にそいつを呑み込み返してやることもできないし、消滅させることもできない。そうしようとすれば、この世の全てを破壊し尽くすしかない。漱石も言ったろう? 日のあたる所にはきっと影がさすとな。影をなくすには、この世の事物はおろか、太陽そのものもなくなるしかないではないか。無だよ。究極の無だ。
奴は凶暴で危険な存在かもしれないが、逆に脆いとも言える。たとえ妖怪だろうが竜尾身だろうが、大したことはないさ」
この作品はフィクションであり、実際にあった事件若しくは実在する人物又は団体等とはいっさい関係がありません。




