四百五拾五 十一の十一人殺し
「お噂はかねがね聞いておりましたよ。弟はああ言いますがね、やはりあなたは怖い人だ」
グラスに氷を入れながらマスターが言った。
「そうだろうね。私だって怖いんだから」
川辺が相槌を打つ。
「ふん、どうせろくでもない噂だろう。政界の妖怪だの、何だのな。それに、もう国会議員ではないんだから」
中野が満更でもなさそうに応じる。
「いえ、あいにく国会議員のあなたのことは全く存じ上げませんで」
ニヤニヤしながら、グラスの中の氷をマドラーでくるくる回すようにしている。
「ほお、では何だろうね?」
川辺が興味深そうに身を乗り出す。
マスターは一度グラスの中の水を捨てると、さっき取り出した瓶の蓋を取った。何気なくラベルを見ると、赤い文字で〈GORDON 〉とある。それを二本の指に挟んだ小さな容器に一度注いだと思いきや、直ぐに手首を返すようにしてグラスに移し替えた。
次に何かの柑橘類を取り出して、まな板の上で切っている。
「ひょっとしてカボスですか?」
とおれは聞いてみた。
「ライムだよ」
マスターはそう答えたあと、くすっと笑った。
「そうか、あんたは焼酎派だったからなあ。実は、カボスにも挑戦はしているんだ。まだなかなか満足のいくものができないがね」
そう言うと、ライムのひとかけを取ってグラスに絞り入れた。それを再びかき混ぜている。
中野はおれのほうに刺すような視線を向けたが、「カボスか……」と呟くと、またマスターのほうに顔を戻した。
「そう言えば、もうかなり昔のことになるが、当時の知事だった平松さんが私に教えてくれたことがある。こう、二階堂の水割りにカボスを絞り入れながらね──」
そう言って、本当にそんな仕草をしてみせる。
「カボスを絞るときは、皮のほうにも香りや栄養があるので、皮を下に向けて絞るのかいいんだと」
「私も昔、九州にいた時にそんなことを聞いたことがありますよ」
マスターが引き取って答えた。手は相変わらずグラスの中を掻き混ぜている。
「弟分が下手を打って組に迷惑をかけたうえに、本人も大怪我をしてしまいましてね。それで実家に帰って静養していたんです。しかし、怪我の後遺症からしてどう見ても復帰できそうにない。だから見舞いがてら、足を洗うよう勧めに行ったんです。そしたら、彼の親御さんが歓待してくれましてね。そうめんをご馳走してくれたんですが、薬味がカボスの皮をおろしがねですりおろしたものだったんです。いやあ、あれは実に美味しかった。──なんでしたら、あとでお出ししましょうか?」
「そりゃあ、いい。ところでさっきの話の続きを聞かせてくれるかね。肝腎なところで、このKY男が口を挟むものだから──」
中野は三度目の厳しい視線をおれに向けながら、そう言った。
「ああ、そうでしたね」
マスターはいったんそばを離れると、冷蔵庫から別の瓶を取り出した。丁寧にグラスに注ぐと、マドラーで一番下の氷を軽く掬うようにした。中野の前に差し出す。
「どうぞ、何の変哲もないものですが」
「ほお、ジントニックか……」
中野が早速グラスを手にすると、カウンターの向こうで睨みつけるようにして見ている。
「何だか、果たし合いでも挑まれているみたいだな」
こちらは半分笑うようにしながら一口飲むと、ふむ、なるほど……と呟く。
それから、改めて言った。
「私は、自分の仕事にこだわりと誇りを持っている人間は、嫌いではない」
この男にしてみれば、最大限の褒め言葉なんだろう。マスターもそう受け止めたのか、満足そうに軽く頷いている。
「ところでしつこいようだが、さっきの続きをまだ聞かせてもらってないようだが」
中野がまた促す。
「そうだよ。この人のことで私も知らないような話があるなら、ぜひ聞かせてもらいたいものだ」
川辺も同調する。
「それなら話しますが、決して怒らないでくださいよ」
マスターは用心深そうに言った。
「失礼ですが、十一の十一人殺しの話は我々仲間うちでは語り草になっておりましたからね。もう大昔のことだが、あなたはご自分の弟分を助け出すために十一人のヤクザの元に単身乗り込んだ。しかも、丸腰だったていうのに、全員半殺しの目に遭わせたってえのは、伝説のように語られていましたからね」
「ハッハッハ。何のことかと思ったら、そのことだったのか」
中野はいかにも愉快そうに、大きく肩を揺すって笑った。
血が繋がっていないとは言え、自分の娘が行方不明になっているというのに、何だろう、この余裕は? それに、いささか不謹慎ではないだろうか。しかも、さっきこそ同じような理由でおれのことを責めたばかりではないか。
そう思って、大いにおれは憤っていたのだった。
そんなことも全く気づかないかのように、中野は重ねて言った。
「実はあの時、私には好きな女がいたんだ。年上だったがね。あれで愛想を尽かされて、逃げられちまったよ。少年院にいる間にな。人生で最悪な時期だった」
「しかし、立派に更生されて国会議員にまでなった。なかなかできないことです」
マスターがそう言うと、川辺も腕組みをしてうんうんと頷いている。
「その成れの果てがこのザマだ。たかが五百万の金で国会議員の身分も棒に振った末に、娘まで行方知れずとなってしまった」
中野はそう言うと、こちらを振り向いた。再び容赦のない視線を浴びせてくる。
この作品はフィクションであり、実際にあった事件若しくは実在する人物又は団体等とはいっさい関係がありません。




