四百五拾四 妖怪VS元ヤクザ
するとマスターが、おれと川辺の前にコーヒーを置いた。自分もカウンターの向こうに腰掛け、黙って同じものを飲んでいる。
「やあ、有り難う」
川辺が早速カッブを手にして、匂いを嗅ぐ。
「うん、いい香りだ」
そう言うと、再び安太郎さんの手記に目を落とした。
「済みません」
おれもぺこりと頭を下げて、一口飲んだ。香りに癒やされるとともに、頭の中まですっきりしてきたような気がする。
ふと、タツユキさんたちのことを思い出した。考えてみれば、おれはあの人たちにこれまでどれだけ励まされ、助けられてきたことか。
自分一人ではできないことがある……。それはたしかにそうだ。そんな単純な真理に、今の今まで気づかなかったのは、どこか自分の中に奢りがあったからなのかもしれない。
しかし、自分にしかできないこととは何だろう?
今のおれにできることと言えば、自分が知っていることと知らないことをきっちりと見極めたうえで、自分ができないことをやれる第三者に自分の知っていることを全部伝えたうえで、助けを乞うぐらいしかないのではないだろうか。
しかし、今度のことであの善良な人たちを巻き込んでしまってもいいのだろうか? 場合によっては命の危険が伴うかもしれないのに?
だからといって、警察に相談したって一笑に付されるだけだろう。あの小中大吉巡査長に頼んだところで、上が取り合ってくれまい。
待てよ、警察? 中野十一なら、警察庁長官とツーカーみたいだったから、何とかなるかもしれないではないか。いや、駄目だ。警察が強行突入でもしたら、あの片桐のことだ、何をするか分かったものではない。下手をすると、その場で京子を殺してしまうかもしれない。さて、どうしたものか?
また行き詰まってしまった。考えあぐねて腕組みをした時だった。ドンドンと表からドアを叩く音がする。
マスターを見たら、
「なに、構わないさ。外にはちゃんと閉店の札を下げているんだから」
と言う。
するとまた、ドンドンと叩く音がする。マスターはそれでも、いっこうに気にかけない様子。
ほとんど時を置かず、今度はおれの携帯が鳴動しはじめた。画面に、『中野十一』とある。
いつの間に? おれは登録した覚えはない。
黙って川辺に見せると、とりあえず出てみなさいと言う。
耳に当てると、低いがよく通る声が響いてきた。
「私だ。ここを開けてくれないかね。君たちがこの店に入ることは分かっているんだから」
「ちょっと待っていただけますか?」
いったんそう答えて電話を切ると、川辺とマスターの顔を交互に見ながら言った。
「中野十一が店の前まで来ています。どうしましょうか?」
「入れてやらないわけにはいくまい。しかし、どうしてここが?」
川辺が不思議そうに言う。それはそのまま、おれ自身の疑問でもあった。
同意を求めるためにマスターを見ると、黙って頷く。
「ジロー、お客さんだ。ドアを開けてくれるかい」
「うん、分かった」
ジローちゃんはピアノを弾くのをやめて、立ち上がった。
振り返って見守っていると、やがてドアが開き、中野がその長身を現した。秘書を二人連れている。こちらには一瞥もくれず、無遠慮にじろじろと店内を見回しながら入ってきた。
ジローちゃんがまた内側からロックするのを見届けると、二人の秘書はこちらを向いてドアの両側に陣取り、両手を後ろに組んで仁王立ちした。
「変なの」
ジローちゃんが秘書たちを見て笑う。二人からは特に反応はなかった。
中野はこちらに向かってツカツカと歩いてくると、川辺のそばでいったん立ち止まった。
「何だ、君もいたのか?」
と、とぼけてみせる。
「生憎だったな。都合が悪かったかね?」
川辺が答える。
「いや、どうってことはないさ。しかし、この坊やは、とっくの昔に後足で砂をかけるようにあんたのもとを去ったんじゃなかったかね。そんな人間といつまでもつるんでいて、何かのメリットがあるのかな?」
「私には私なりの事情というものがあるんだよ」
川辺は特に怒りもせずに答える。
「ふん、まあいいや」
中野はそれ以上追及せずに、そのまま背後をを通り抜けて、おれの左横にどかりと座った。それまで、松尾が座っていた席である。
座るや否や、おれを突き刺すような眼で見ながら言った。
「全くどうしょうもない男だよ、君は。彼女が行方知らずになっているというのに、こんな店で油を売っているとはな」
おれにはおれなりの事情ってもんがあるんですよ……。
よっぽどそう言ってやりたかったが、とうとう言えなかった。
すると、助け舟を出してくれるかのように、マスターが言った。
「こんな店で申し訳ありませんがね、何かお飲みになりますか?」
中野は、今度はマスターの上半身を上から下までじろじろと見回した。彼の手の指が欠損しているのもしっかりと見て、しかもそのことを隠そうともしない。
それから、おれの手元にあるコーヒーカップをちらっと見て言った。
「ここはカクテルを出してくれるんだろう? さて、何にするかな……? うん、君に任せよう」
この人に向かってよくこんな口の利き方ができるもんだ。マスターは一瞬眼を細めて相手を値踏みするようにしていたが、直ぐに笑い出した。おれを見て言う。
「やれやれ、君の友だちはどうしてこうも恐ろしい人たちばかりなんだろうな。参ったよ」
それから背後の棚を振り返って、うーんと考えている。
「よし、こいつにしよう」
と一本の瓶を取り出した。
「お兄ちゃん、この人は恐ろしい人じゃないよ。オッチャンの友だちで恐ろしいのは、あの人だけだい」
ピアノの前に戻っていたジローちゃんが言う。
すると、中野が振り向いて言った。
「有り難う。でも、私はこの男の友だちなんかでは決してないからな」
こっちこそ先にそれを言いたかったですよ……。
そのセリフが喉元まで出かかったが、とうとう言えなかった。
この作品はフィクションであり、実際にあった事件若しくは実在する人物又は団体等とはいっさい関係がありません。




