四百五拾弐 グズでクズ
おれは寅さんに断って、いったん電話を切った。
「では、行ってきます」
松尾は川辺に向かってそう言うと、今度はマスターに顔を向ける。
「今夜は有り難うございました。次は俺一人でふらっと来ることがあるかもしれませんが、それでもいいですか?」
「もちろんだとも。──あっ、ちょっと待ってくれ」
マスターは、松尾がそれまで飲んでいたかぴたんのロックグラスを、やおら手に取り洗いはじめた。それから綺麗な白い布でゴシゴシ拭くと、後ろの棚に伏せた。
「これはもうあんたのものだ。これからはこいつが、主人の帰ってきてくれるのをずっと待ってるだろうよ」
「有り難うございます。きっとまた来ます」
松尾は頭を下げて、そこを離れた。通りすがりにジローちゃんに声を掛ける。
「ジローさん、今夜は素晴らしい歌を有り難うございました」
「ん、何だ? 僕にはよく分からない言葉が聞こえる」
ジローちゃんは振り返りもせず、ピアノを弾き続ける。
松尾が、困ったような顔で振り返った。笑って頷いてやると、再びジローちゃんのほうに向き直る。
「実はもう一曲、聞きたい曲があったんだ」
「何だい?」
「サトウハチローの作詞した『長崎の鐘』なんだけど……。摂の母親が、子守唄のようによく歌ってくれていたらしいんだ」
「分かった。練習しとくよ。その代わり、絶対に来いよ」
「うん、きっと来る。──申し訳ないけど鍵を開けてくれるかい?」
「分かった」
こうして松尾は、ドアの向こうに消えていったのだった。
おれはそれを見届けると、寅さんに電話を欠け直した。
「もう撤収していいですよ。実は、そこのホテルに片桐が滞在していることが確認できました。そして、京子がそこにいることも。
もともと寅さんにそこに行っていただいた目的は、もう達成されたんです。でも、決して無駄足になった訳ではないですから。お陰で何らかの糸口が見えてきたような気がします。ご足労いただいて申し訳ありませんでした。これからどうされますか?」
「ふーん、そうなのか。それなら良かった。ん、俺たちかい? せっかくここまで来たんだから、どっかで食事して、別のホテルにでも宿泊することにするよ。なーに、こんなホテルなんかよりも、もっと洒落たホテルにな。昼にも言ったように、美登里と二人だけでホテルに泊まるなんて、本当に久し振りだから、これからしっぽり濡れた夜を過ごすんだ。へへへ」
とたんに、「バカ!」という声が聞こえてきた。続いて、「イテテテ──」という声。電話はそれでぷつりと切れた。
ジローちゃんが再びピアノを弾き始める。今度は歌うこともなく、ただ静かに弾いている。
すると川辺が、不意に何かの曲を口ずさんだ。
こころの罪を うちあけて
更け行く夜の 月すみぬ……*
ジローちゃんの弾いているメロディと全然違うせいか、ひどく音程がずれている。しかし、もともと音痴なのかもしれない。
「あっ、それだ! 思い出した」
ジローちゃんが直ぐに伴奏を始める。やがて歌いだした。
こよなく晴れた 青空を……*
彼はピアノの天才だ。どんな曲でも一度聞いただけで、即座に弾いて再現できるのだった。それに、ものすごい美声だ。つい聞き惚れてしまう。
「あいつは十字架を背負ってしまった」
しばらく耳を傾けていた川辺が、ぽつりと言った。
「えっ?」
「自分の野望のせいで女を死なせてしまったと、苦しんでいる。無茶をしなければいいのだが……」
それから、おれの持ってきた安太郎さんの手記をめくりながら言った。
「私はこれを読みながら、松尾からの連絡を待つことにするよ。──マスター、構わないかい?」
「構いませんよ。全然構わない。もともと今夜はあんた方のために貸し切りにしたんだから」
「有り難う。──ところで、君はどうするかい?」
「おれも一緒に待ちます。そして、彼女を救う手立てをじっくり考えてみます」
おれはそう答えたものの、急に自分が恥ずかしくなった。
考えているだけで何になるというのだ。元来おれは性急な人間で、直ぐに何かを言ったりやったりで、失敗をやらかしてきた。
ところが、肝心なこのような場面では怖じ気づいて尻込みしてしまうのだ。彼のあのがむしゃらな行動力がおれにもあれば、と羨んだ。しかし、だからといって、あのホテルに丸裸で飛び込んだところで、せいぜい追い返されるのがオチである。
落ち目、落ち目の欽之助──。
ふと、キンケツの声が頭の中に響いてきた。
あなたは意気地なしだ──。
続いて京子の声。
チクショー、どうすればいいんだ?
松尾の話からして、あのホテルに京子が監禁、もしくは軟禁されていることはほぼ間違いないだろう。分からないのは、カジノに片桐と二人で姿を見せたということだ。なぜ大人しく従っているのだろうか。
そして、もう一つは、彼女が何を聞かれても、何を話しかけられても、ただへらへらと笑っているだけだということ──。
ひょっとしてクスリでも打たれているのか?
そこまで思い至ったおれは、頭が混乱し居ても立ってもいられなくなった。心臓が狂ったように拍動し始める。
チクショー、いったいどうすれば?
「マスター、僕にもかぴたんのロックを──」
と言いかけたおれは、そこで危うく踏みとどまった。
「いや、やめときます。水を一杯いただけますか?」
* 『長崎の鐘』
作詞:サトウハチロー
作曲:古関裕而
この作品はフィクションであり、実際にあった事件若しくは実在する人物又は団体等とはいっさい関係がありません。




