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四百四拾九 異様な女

 かぴたんのロックが出てくると、松尾はグラスを手に取ったものの、直ぐに口をつけるでもなく、さっきのようにまた氷をくるくる回しながら、黙って見ている。


 おれは不安になって尋ねた。

「ひょっとして君の話はそれで終わりなのか?」


「そうだ。主筆以外には誰にも言ってないことだからな。それほど貴重な情報なんだから、少しは感謝するがいい」


「何を馬鹿な。その程度の情報で、よくもそんなに恩に着せられたものだ。がっかりだよ」

 つい吐き捨てるように言ってしまった。


「何だって?」

 きっとなって、グラスからこちらに目を移す。


 おれは続けた。

「あのホテルが闇カジノを開帳していようが、片桐がそれにどう関与していようが、そんなことはどうでもいい。おれの知りたいことはただ一つ、彼女の失踪に関わりのありそうな情報だけだ。それが何もないじゃないか」


 すると松尾は、皮肉っぽい微笑を唇の端にたたえて言った。

「あんたはやはり新聞社を辞めて正解だったよ」


「何を言いたい?」


「池に小石を投げ入れると、意外に大きな波紋を描くことがある。それで驚いたはずみに飛び出したやつが、思ってもみなかったような大きな獲物だったりすることだってあるんだ。

 ──ふん、まだ分からないようだな。いいか? 片桐は京子さんの父親の秘書をしていたんだぞ。その男が犯罪まがいのことを、いや犯罪そのものに手を染めているんだ。それが何かの手掛かりになるとは思わないのか? それを足掛かりに、自分の力でもう少し歩を進めてみようとは思わないのか? 何もかも他人の力、他人の情報に頼るのか? もし、あんたが新聞記者を続けていたら、当局の発表を鵜呑みにして、自分の足では何一つ調べようとはせず、それをそのまま世間に垂れ流すんだろうな。だから、辞めて良かったと言ってるんだよ」


 おれは元来、性急せっかちで喧嘩っ早い人間である。悪口なら次々に口をついて出てくるが、ほとんどが他愛もない単語の羅列みたいなもので、論理的に相手を言い負かすような芸当はまずできない。おまけに、こうも立て続けにやり込められると、二の句が継げなくなる。ギャフンだ。


 そんなこちらの様子を見てもまだ腹立ちが収まらないのか、松尾は川辺のほうを覗き込むようにしながら、憤懣やる方ないように言った。

「違いますか、主筆?」


 突然、話を振られた川辺は、

「ああ、なるほど……」

 と意味のない返答をした。タイミング良く出てきたマティーニに口をつけてごまかす。


 おれはすっかり打ちのめされ、相変わらず何も言い返せずに黙っていた。


 おれの言い方も悪かった。癪に障るが、ひとまず謝っておいたほうがいいかもしれぬ。それにしても、この男のおれに向ける敵意は激し過ぎる。裏に何かあるのでは? 今夜は特に酔えないとさっき言っていたが、そのことと何か関係があるのだろうか……?


 そんなことを考えていたら、なおもたたみかけてきた。

「そんなていたらくじゃ、小説家になることはおろか、女一人救うこともできなければ、幸せにしてやることもかなわないだろうな」


「君の言うとおりだ。済まない」

 おれはついに観念して謝った。

「だが、せめてもう少し彼女の失踪につながるような情報はないのか? 君の情報提供者だが、そのクラブの女は何か言ってなかったか?」


「情報提供者だと?」

 松尾は一瞬気色ばんだが、直ぐに、

「ないね」

 と、冷たく言い放った。


 だがそう言ったあと、待てよ……、と呟いて少し考え込んでいる。


 何だと聞き返したくなるのをぐっとこらえて、彼が次に口を開くのを辛抱強く待った。


「そう言えば、と言っても、これも又聞きの又聞きなんだが」

 松尾は慎重に切り出した。

「例のボンクラ社長が、その女に面白そうに聞かせてくれたという話なんだが、片桐が女を連れていたことがあったらしい」


「何、片桐が? いつ、どこでなんだ? その女というのは、どんな……? 年齢は?」

 つい急き込んで尋ねた。


「待てよ。少しずつ思い出すから」

 さっき出されたかぴたんに初めて口をつける。目を閉じてゆっくり味わうように飲むと、少し時間を置いてから言った。

「時間は夜遅く、場所はカジノだ。女はすこぶる美人で、年齢は三十になるかならないかということだった」


 京子だ──。

 おれは直ぐにそう直感した。


「髪は?」

 最後に逢った時、京子は以前のピンクブラウンの長い髪をバッサリと切り、漆黒のショートヘアに変えていた。


「髪だって? さあ、ショートだと言ってたかな? いや、分からない。もともとそんなことまで彼女が喋ったかさえ、覚えちゃあいないよ。だが、ボンクラ社長がなぜあえてそんなどうでもいいようなことを彼女に話して聞かせたかと言うと、片桐の連れていた女が少し異様だったからだ」


「異様というのは?」

 急に不安に襲われ、心臓がだんだんと激しく高鳴ってくる。しまいには、その音が自分で聞こえるぐらいに大きく拍動していた。


「片桐は君もよく知っているように、あのとおりの偉丈夫だ。連れていた女も、とびきりの美人ときている。その二人がきっちりとジャケットとドレスで正装してカジノ場に現れたものだから、そこにいた人間たちは皆、息を呑むようにして固まったらしい。片桐はその女を丁寧にエスコートしていたんだが、二人が歩いていくとまるでモーゼの海割りのように人垣が割れてね、ただもう溜め息をつくようにして皆で遠巻きに見つめていたと言うんだ」


「だから、その女の何が異様なんだ?」

 イライラしながら尋ねた。


「ボンクラ社長が言うには、ほかならぬ片桐さんの彼女だから、お愛想を言おうと思っていろいろ話しかけてみた。ところが何を言っても、何を聞いても、ただ、ええとか、はーとか空気の漏れるような返事をするか、それともニタニタ笑うばかりで、まるで手応えがない。それで、ボンクラ社長は思ったらしい。さすがの片桐さんも焼きが回ったと見える。いくら美人だからって、こんなオツムの弱そうな女を彼女にするとは。それとも、あっちのほうの味がよほどいいのかなと」


「おい!」

 おれは、今にも松尾に飛び掛かりそうになるのを必死で抑えながら言った。

「その女をおれに紹介してくれ。会って直接話をしたいんだ」


「その女とは?」

 松尾が冷酷に聞き返す。


「決まってるじゃないか。あんたの情報提供者だよ。クラブの女だ」


「そいつはできない相談だな」


「なぜだ? その女というのは、京子に間違いない。おれには分かるんだ。頼む、その女を紹介してくれ!」

 おれはすっかり混乱して、その女という言葉を区別することなく使っていた。


 松尾はグラスをぐいと傾けると、おれのほうに向き直って言った。

「その女は死んだよ。バスタブで手首を切って血まみれになって横たわっていたのが発見されたんだ」

この作品はフィクションであり、実際にあった事件若しくは実在する人物又は団体等とはいっさい関係がありません。

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