四百四拾弐 あれかこれかかあれもこれもかか
「じゃあ、聞かせてもらおうか」
川辺の声に、おれはハッと我に返った。
「あ、はい、そうですね……」
おれが少しぼんやりしていると、川辺の向こう側に座っていた松尾が、もさっとした感じで立ち上がった。いいちこのロックグラスを持ち、川辺の後ろを通って、おれの左横に座り直す。
「すぐ隣のほうが聞き取りやすいと思ってね」
松尾はそう言うと、グラスをカラカラ鳴らしながら目の前に掲げた。
おれも合わせて自分のグラスを掲げ、それに軽く当てる。
「田舎の皇帝も悪くない」
松尾が、いいちこを飲みながら言った。
「島の支店長さんもな」
おれも、かぴたんに口をつけて言い返す。
それから一呼吸おくと、京子との交際を中野が反対しているたことやそれに関しての片桐の役割などを、ざっくりと皆に話して聞かせた。しかし、『竜尾身』のことはもちろん、片桐を疑っていることも口には出さなかった。まだ時期尚早だと判断したからだ。
すると、川辺が言った。
「そう言えば、君がどんな男なのか、中野さんに聞かれたことがあったな。君がまだ新聞社にいる頃だった。だから答えてやったよ。新聞記者としては有望だ、私がそのように育てているんだからとね。すると向こうは言うんだ。それなら、政治的センスも養われるかもしれないな。文学部出というのが気に食わないが、もしも私の眼鏡にかなうような男なら、私の後継者として娘の婿にしてやってもいいだろうと」
おれは唖然として川辺を見つめた。中野は最後に妥協案として、京子との結婚を認める代わりに、自分の後継者として秘書になるよう、片桐を通じて言ってきたことがある。おれはそれを額面どおりには受け取らなかったが、いまになって初めて川辺の口から聞いたことをそのまま信用するならば、秘書になれというのも、あながちおれを陥れるための策略ではなかったのかもしれぬ。
「なぜそれを……」
おれは呻くように言った。
「なぜそれを、その時におっしゃってくれなかったんですか?」
「じゃあ君は、彼のそういう考えを受け入れていたかね?」
即座に切り返される。
「君は、九州の方言で言うところの『月点』だそうじゃないか。自分でそう言ってたぞ。彼女と交際するだけでそんな条件をつけられたら、君はたちまちへそを曲げてしまってたんじゃないかね?」
「確かにそうかもしれません」
おれは素直に頭を下げた。
しかし、彼の追及は終わらなかった。
「実は、小説家になるためにうちの新聞社を辞めたいという申し出が君からあった時に、よっぽどその話を持ち出そうかと迷ったんだ。だが、もしそうしていたら、君は退職を思いとどまっていただろうか? そんなことはあるまい」
おれは黙ってうなだれておくしかなかった。京子からも、辞めないよう必死で懇願されたにもかかわらず、最後まで言うことを聞かなかったのだから。
川辺は、さらに追い打ちをかけるように言った。
「君は欲張りなんだよ。京子さんを愛しているのなら、夢のほうを諦めるべきだった。さっさと結婚していれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに」
果たしてそうだろうか、とおれは思った。いくら結婚したからって、四六時中一緒に家に居るわけではない。いや、もしそうしていたとしても、片桐ならどんな手段を講じてでも、彼女を拉致してしまうだろう。
そろそろ奴のことを持ち出すタイミングかもしれぬ。そう考えていたら、とんだ邪魔が入った。
──女に煩わせられるなんて、馬鹿な奴だ……。
突然そんな声が、頭の中に飛び込んできた。ハッとして左を向くと、松尾は素知らぬ顔をしてグラスを傾けていた。しかし、声は再び響いてくる。
──女を知らない証拠だな。俺はよく知っている。女ってやつは、仕事の妨げにしかならないんでね。だから、どちらを取るかと言われれば、俺は仕事を取る。主筆の言われるとおり、君は欲張りなんだ。人生はあれか、これかなんだよ。あれもこれもでは、みんな駄目になる。それこそ、あれでもこれでもなくなっちまうんだから……。
おれは、かぴたんをぐっと飲み干すと、やり返した。
──女を愛したことがない奴の言うセリフだな。
──愛したさ。愛したからこそ言ってるんだ。何だ、女の身体も知らないくせに……。
「ゴホッ、ゴホッ」
おれは思わず咳き込んでしまった。
松尾は畳みかけてきた。
──こいつは驚いた。図星だったんだ……。
おれはそれには取り合わずにいった…
「マスター、み、水を一杯頂けますか? 35度はやっぱりきついみたいで」
「何だ、それくらいで。だらしない」
松尾が今度は口に出して言う。
「余計なお世話だ。おれは今夜は、呑気に酔っぱらってしまうわけにはいかないんだ。お前なんかとは違う」
おれも口に出して言い返す。
「お前とは何だ、お前とは。お前なんかから、お前呼ばわりされる筋合いはない。この田舎者め」
真っ赤になって怒っている。
「よさないか、君たちは」
川辺が言った。
「マスター、申し訳ない。二人ともまだ青二才でしてね」
「いいんですよ。私は、これくらいのことは一向に気にしませんから」
鷹揚に笑いながら、水の入ったコップをおれに差し出す。
「有難うございます」
おれは、それを一口飲むと、まだ憤懣やるかたないように念を送った。
──女を愛したなんて嘘だ。溺れただけなんだろう、女の体にな。
松尾は、相変わらず真っ赤な顔をしながら言った。
「マスター。もう一杯、カピタンのロックを」
この作品はフィクションであり、実際にあった事件若しくは実在する人物又は団体等とはいっさい関係がありません。




