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四百四拾壱 取り戻せない時間

「ジロー、お前も喉が渇いたろう。オレンジジュースでも飲むかい?」


「うん」


「じゃあ、ドアの外に閉店の札を下げておいてくれるか? その間に用意しといてやるから」


「分かった」

 ジローちゃんは、直ぐにドアに向かう。


 川辺はそれを見届けると、マスターに向かって言った。

「ひょっとして、我々のために? だとすれば申し訳ないことだ」


「なーに、どうせいつも閑古鳥が鳴いているような状態でしてね。お気になさることはありませんよ」


「有り難う。この埋め合わせは、きっとさせてもらうから」

 川辺は、カウンターの縁に両手をつきながら、深々と頭を下げた。


 マスターは軽く笑った。川辺も同じように笑いながら頷くと、今度はこちらを向いて言った。

「それでは、もう一度最初から経緯を話してもらおうか。ここでは話しにくいだろうから、テーブル席に移動するかね?」


「いえ、このままで結構です」

 そう言うと、おれはマスターのほうに顔を向けた。相手もそれに気づき、こちらを見返す。


「実は、京子さんが行方不明なんです」

 おれはジローちゃんのほうを気にしながら、声をひそめて言った。


「何だって、京子さんが?」

 マスターが驚いて聞く。


「申し訳ありません。マスターにお話しするのが遅れてしまいました」


「ああ、それはいいんだが、一緒に聞かせてもらっても構わないのか?」


「もちろんです。マスターが口が固いというのは分かっていますから」


 そこへ、ジローちゃんが戻ってきた。

「閉店の札、下げてきた。中からロックもしておいた」


「おっ、よく気がついたな。有り難う。ほら、オレンジジュースできたよ」


「有り難う。──お兄ちゃん、ピアノ弾いていい?」


「ああ、もちろんさ」


「わーい」

 ジローちゃんはそう言うと、オレンジジュースには目もくれずに、ピアノの前に向かった。


 マスターはおれを見て苦笑いをしながら、いつものことさと言わんばかりに、肩をすくめる。


 ジローちゃんは、椅子に座ると直ぐにピアノを弾きながら、歌い始めた。


  Lonestar

  Where are you out tonight…… *


 伸びやかに、からっとした調子で歌う。それなのに無性に切なく、心にしみ入るように響いてくる。


 この曲は初めてだが、今までにも京子と二人で何回もここを訪れては、彼の歌に聞き惚れたものである。そんな時にふとしたはずみで、彼女の肩が触れるようなことが何度かあった。おれは素知らぬ振りをしてそのままにしていたが、彼女もあえて離れることはなかった。


 おれはガキのように胸を震わせながら、まさに天にも昇るような心地になっていたのだった。あの永遠とも思えるような甘美な瞬間を、おれはもう二度と取り戻すことはできないのであろうか。


 今考えれば、後悔することばかりだ。デートの時に、なぜ彼女の求めに応じてその手をしっかりと握ってやらなかったのか。なぜ、その目をしっかりと見つめることをしなかったのか。些細なことで言い返したりせずに、なぜじっと彼女の話に耳を傾けてやらなかったのか。もう二度と、その機会は訪れることがないかもしれないというのに……。


 クリスマスイブに、京子は突然おれの家に現れた。その夜、彼女は、両手を広げて横たわりながら言った。

「こうして目を閉じていると、自分の身体がずんずん地の底に沈んでいくような感じがしてくる。そうして、最後は真っ暗闇の宇宙の中にたった一人、放り出されているような恐怖感に襲われてしまうの」と。


 いったいどのような思いで、そんなことを言ったのだろうか?


 彼女の父親は小説家だったが、大して売れもしていないくせに、飲んだくれの女たらしで、そのうえ、同棲中の彼女の母親に暴力を振るうような男であった。最後には、どこかの場末の酒場で飲み潰れたあげくに、死んでしまった。


 母親も、京子が中学生の時に亡くなってしまう。だからこそ、継父となった中野十一は小説家という人種を憎み、かつ、その小説家にもなれないおれを彼女から引き離そうとしたのであったが。


 彼女の不幸は、それにとどまらなかった。妻子ある男と恋愛関係に陥り、裏切られる。そればかりか、妊娠の末に死産という憂き目に遭ってしまったのである。


 あの夜、なぜおれはもう少し先へ進めなかったのか。何をおれは恐れたのだろう。彼女の覗き込んでいた深淵なのか。そのことに彼女は気づき、おれから離れていったのではなかったか……?



 ジローちゃんの歌が続く。


  How far you are I just don't know

  The distance I'm willing to go……


 おれの心はさらに重く重く沈んでいく。心だけでなく、自分の身体までがどんどん沈んでいく。やがては地球の中心を貫き、とうとう銀河の果てにまで放り出され、永久に彼女と隔たれてしまうような気さえしてくるのだった。



* Lonestar/Norah Jones

この作品はフィクションであり、実際にあった事件若しくは実在する人物又は団体等とはいっさい関係がありません。

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