四百四拾 売られた喧嘩は買います
「実は、父の伝記をこの男に書いてもらおうと思っていてね」
川辺が、とりなすように言った。
「そうだ、君にまだ紹介をしてなかったな。彼は松尾憲治といって、『週刊風聞春秋』の記者なんだ」
「知ってます」
と、おれは答えた。
「例の中野十一の記者会見を、たまたま見ていましたから。かなり突っ込んだ質問をしていたので、印象に残っています」
「そうだったのか。彼の取材力は抜群でね。この男なら、私の知らなかった父の実像を掘り起こしてくれるんじゃないかと期待しているんだ。
近頃、父の死んだ時の年齢に近づくにつれ、ふと焦燥感に駆られるようになってね。主筆なんて地位に就いたものの、私は今までジャーナリストとして何をやってきたんだろう。今の政治状況に対して、何と自分は無力なことか──、なんてことをつい考えたりしてね。それに引き換え、父は終生、身を賭して権力と戦い、最後まで一ジャーナリストととしての本分を貫いた。そんな父を、私は軽蔑し反抗もしてきたんだからね。いやはや恥ずかしい限りだよ。
それで、死んだ父に誓ったんだ。彼が自ら封印してしまった、その生きざまをたどり直して伝記にまとめるとね。君の貸してくれたノートは、父を知るためのいい手掛かりになると思う。有り難う、感謝するよ」
「お役に立てて嬉しいです」
おれは、このノートのことで彼から少し前に叱られたこともあり、恐縮しながらそう答えた。
松尾はさっきからノートをパラパラとめくるばかりで、おれには何の挨拶もなかった。本当に憎い奴だ。
おのれ、何かの念をまた送ってやろうか。そう思って歯をギリギリ言わせていると、入口のドアが開く音がした。
振り返ると、案の定ジローちゃんだった。
「お兄ちゃん、こんにちは」
「ああ、こんにちは。散歩はどうだったい? 暑かったろう?」
マスターが返す。
「うん、暑かった」
短髪の白髪頭をタオルで盛んに拭う。
「だから、神宮外苑のベンチに座ってコーラを飲んだ。僕、ちゃんと自動販売機で買えたんだ」
そう言うと、肩からたすき掛けにしていた鞄を自慢そうに持ち上げて見せた。
「そうか、美味しかったかい?」
「うん、美味しかった。あれ、お釣りをちゃんともらったかな?」
鞄を両手で広げ、訝しげな表情をしている。
「大丈夫だよ。お兄ちゃんだって、よく取り忘れることがある」
「お兄ちゃんも? なら、いいよね」
「ああ、いいってことよ」
「でも、お兄ちゃんは本当に僕のお兄ちゃんなの?」
「ああ、本当だとも」
「じゃあ、もうどこにも行かないよね」
「ああ、行かないさ」
いつものやり取りが終わるのを待って、おれも挨拶をした。
「ジローちゃん、こんにちは」
「何だ、オッチャンも来ていたのか。オッチャン、こんにちは。あれ、京子さんは?」
「今日は、来られないんだ」
「なーんだ。それでこの人たちを代わりに連れてきたんだね。皆さん、こんにちは」
「こんにちは」
川辺も挨拶を返した。
「オッチャンだって?」
松尾は、ジローちゃんとおれを交互に見比べていたが、最後にぷっと吹き出した。しかし、直ぐにハッとしたように身体を硬直させた。傍目にも分かるほど顔を真っ赤にしている。
「いいんだよ。あんたに悪気のないことはよく分かるから」
マスターにそう言われた松尾は、ますます身体を小さくした。
「いいんだよ。あんたに悪気のないことはよく分かるから」
今度は、ジローちゃんが兄の言ったとおりのことを繰り返した。
「お兄ちゃん、この人たちは、オッチャンの友だちの京子さんと金本さんと同じぐらいいい人たちみたいだね。でも僕、片桐さんだけはおっかなくていやだったな」
「あいつは、僕の友だちじゃないよ」
おれは、慌てて訂正した。
「片桐だって?」
川辺はすかさずそう言うと、松尾と目配せした。
「ひょっとして、中野の秘書のことなのか? ここに来たことが?」
立て続けに聞いてきた。松尾も厳しい目付きでおれの返事を待っているようだった。
「ひょっとして──」
おれも思わず、同じ言葉で返す。
「お二人とも、彼のことをご存じなんですか?」
すると、川辺ではなく松尾が口を挟んできた。
「ご存知も何も、奴は俺が追っている獲物なんだよ。場合によっては、スクープが取れるかもしれないんだからな」
──何だ、そのいちいち突っ掛かるようなものの言い方は。お二人もご存知も、丁寧語は主筆に対してだけなんだよ。お前は付け足しなんだ。勘違いするな、バーカ!
おれは、そう激しく念を送ると、改めて声に出して言った。
「スクープになるかどうかは、おれには関わりのないことだ。あんたがどれだけの情報を握っているかどうか分からないが、おれに全部教えてくれないか? ことによると人の命がかかっているんだ」
「全部教えろだと?」
向こうもおれを睨み返してくる。
「いくら人の命がかかっているからって、よくもそんなことを簡単に言えるものだ。人の苦労も分からないで」
そのまましばらく睨み合っていると、川辺が言った。
「おいおい、私を間に挟んで互いに火花を散らすのはやめてくれないかな。さっきから剣呑で困るよ」
すると今度は、マスターが言った。
「さあさあ、二人ともグラスが空になっているぞ。飲み直しといこうか」
そうやって出されたのは、おれには『かぴたん』、そして松尾には『下町のナポレオン』だった。
この作品はフィクションであり、実際にあった事件若しくは実在する人物又は団体等とはいっさい関係がありません。




