四百参拾九 二体のおんぶお化け
向こうはさすがにムッとした顔をしたが、こちらは逆に、久しく念を抑えることばかりだったので、胸がすっきりした。
そうこうするうちに、マスターが琥珀色の液体に満たされたグラスをカウンターに置く。
「喉がお渇きとのことですので」
一言だけそう言うと、少し試すような目付きで、川辺を見る。
川辺は一口だけ飲むと、言った。
「うん、美味しい。断っておくが、別に私はカクテルに詳しいわけではない。ただ単純に楽しみたいだけでね。因みにこれはどういう……?」
「パナシェです。ざっくり言えば、ビールとレモンソーダを、ただ等量に混ぜ合わせただけのものでしてね。参考までに、カクテル言葉は活力だそうです」
「なるほど。道理で、内臓の隅々の細胞までが生き返りそうだよ」
川辺はそう言うと、その丸みのあるふくよかな感じのグラスを再び持ち上げ、ゴクゴク飲みほしてしまった。
マスターは、そんな相手の様子を満足そうに見ながら言った。
「よろしかったら、上着をお脱ぎになったらいかがですか? あちらに掛ける所がありますから」
「ああ、本当だ。有り難う、気づかなかったよ」
川辺が席を立つ。
すると直ぐに、はいよと二つの焼酎グラスが置かれた。
「はや!」
松尾が目を輝かす。これも有田焼らしい藍色のグラスを手に取ると、氷をカラカラ鳴らしなが少しだけ、口につけた。
「これだ。これこれ……」
そう言って、勝ち誇ったような顔でこっちを見る。
何だそんなもの……。
おれは、さらにはっきりと念を送ってやった。
かぴたんだかキャプテンだか何だか知らないが、こっちは皇帝なんだから……。
──下町のな。
すかさず、頭の中で声が響いてきた。
驚いて松尾の顔を見ると、向こうはフフンと鼻で嗤った。
再び声が響く。
──いや、下町どころか、どこかの辺鄙な田舎だろう。島国根性丸出しのな。それに比べて、俺のほうは長崎の商館長だぜ。あの時代に、世界に扉を開いていたんだからな。
どうやら、おれと同じような能力の持ち主らしい。九州人は、そういう手合いが多いのだろうか。
戻ってきた川辺が腰を下ろしながら言う。
「何だ、君たちは──。まだ口も聞かぬそばから、もう火花を散らしているのか?」
マスターも、さっきから面白そうにニヤニヤしている。
「ところで、本題に入る前に例のものを見せてくれるかな」
川辺が言った。
「分かりました」
大事に封筒に入れてきた安太郎さんの手記を、そのまま差し出す。
「付箋を貼ってある所から、お父上の名前が出てきます」
「そうか、有り難う」
川辺はノートを取り出すと、早速、付箋の箇所を開いた。しばらく黙って読んでいる。最後まで読むと、うーんと軽い唸り声のようなものを上げて、いったんノートを閉じた。物思いに沈むかのように表紙を眺めている。
するとマスターが、次のカクテルを差し出した。
「こちらはいかがでしようか?」
「あっ、これなら知っている。油地獄だ」
川辺がとっさに言う。
「油地獄?」
向こうは不審な顔をしている。
「うん。女殺し油地獄」
「女殺し油地獄だって? ハッハッハッハ」
今度はのけぞって笑う。
「違いありませんや。現にこいつは、油田の技術者たちが喉の乾きを潤すために作って飲もうとしたんだが、手近にマドラーがなかった。それで、ネジ回しで使うスクリュードライバーで代用したってことから、その名が付いたって話もあるぐらいですからね。
しかし、レディーキラーって別名もあるぐらいだから、度数は高いですよ。さっきみたいにゴクゴク飲まないことをお勧めします」
「うん、分かってるよ。有り難う」
一口飲んで、再び安太郎さんの手記を読み始めるや、「うむ、これは……」と、声を漏らした。しわがれ声だったせいであろう、あわててまたグラスに口をつける。
さらに次々とページを繰っていったが、途中でやめてしまった。ふーと溜め息を付くと、またグラスを手にしている。
「いや、これはとても短時間で読みおおせるようなものではない。借りて帰ってもいいかな?」
そう言いながら、隣の松尾に手渡す。
「もちろんです」
と、おれは答えた。
松尾は何気なくそれを手にすると、同じく付箋のある所から読み始めた。最後まで読むと、
「亡くなったのは、8月5日か」
と呟く。
それでおれも声を出して言った。
「可哀想に、もう少しのところで終戦に間に合わなかった」
「何が可哀想なものか」
松尾が吐き捨てるように言った。その剣幕に驚き、相手の顔を覗き込むと、向こうはまくしたてた。
「むしろ、良かったんだよ。翌日の6日には広島、9日には長崎だ。それを知ることもなく、この人は死んだ。むしろこの人にとっては幸せだったんだよ。そんなことも分からないのか、君は?
6プラス9で15。15日が終戦記念日。正式には、ポツダム宣言の受諾を天皇が国民に向けて発表した日だよ。玉音放送でね。この三つの日を、日本人は永久に忘れては不可いんだ」
おれもこの男も、同様に背中におんぶお化けを背負っている。おれのは石児童といって、これまた背中にランドセルを背負った生意気な小僧だ。ランドセルの中には、教科書、ノート、筆入れのほかに、しわくちゃになった宿題のプリントなどが入っている。
だが、この男のやつはファットマンだ。真っ黒い太ったおんぶお化けで、おれのよりはるかに重い。最初から喧嘩腰なのが気に食わないが、まあ勘弁してやろう。
この作品はフィクションであり、実際にあった事件若しくは実在する人物又は団体等とはいっさい関係がありません。




