四百参拾七 のっそりひょん、珍しく頑張る
小半時も経った頃、スマホに着信があった。
「はい、落目欽之助です」
さっと画面をタップすると、耳に当てるのももどかしく言った。
「お忙しい中、大変申し訳ございません。すっかりご無沙汰をしておりましたが、お変わりなかったですか?」
とおりいっぺんの挨拶なのに、自ずと声が震える。
「ご無沙汰もクソもないもんだ。君と話をすることは、もう二度とあるまいと思っていたんだがね」
やはり、そう来たか……。
言い方にえらくトゲがある。主筆は決して、クソなんて単語を使う人ではなかった。
「はあ……、そ、その節は、大変失礼を致しまして……」
おれはしどろもどろになりながら、汗を拭った。
「ふん、そんな心にもない挨拶なんかどうでもいい。──ところで、川辺翠流というのは私の父なんだが、どうして君なんぞが父を知っているんだろう?」
「えっ……、主筆のお父さんだったんですか?」
苗字も同じだし、朝陽新聞の関係者でもあったから、何らかの縁者だろうとは思っていたが、まさか父親だったとは……。
川辺翠流が安太郎さんと同年齢だとすると、主筆はその孫ぐらいであってもおかしくはない。
意外だったので少し言葉をつまらせていると、こちらの考えていることに気づいたのか、彼は言った。
「父は特高にずっと狙われていたような人間でね、とても家庭を持てるような状況ではなかったらしい。戦争が終わっても、朝陽新聞を再興するのに粉骨砕身するばかりだったんだ。その彼が、漸く妻を得て、さらに一子をもうけることができた時は、すでに五十五歳にもなっていた。
その妻というのは、もちろん私の母だよ。同じ新聞社の記者をしていてね、彼とは親子ほども歳が離れていたんだ。──そんなエロ爺いのことを、どうして君が知っているんだろう? 今度は君の番だ。さあ、教えてくれたまえ」
おれは一呼吸置くと、安太郎さんの手記のことを大まかに伝えた。そして、その中に川辺翠流についての記述があることも。
「やすたろう……?」
念を押すような調子で聞いてくる。やはり心当たりがあるのか?
「はい、白河安太郎さんです。お父上とは、東京大学新人会以来の盟友か同志のような間柄だったそうです」
「しらかわ……やすたろう……。君は確か、そう言ったな?」
「はい。白いさんずいの河に、安んずる太い太郎と書いて、白河安太郎さんです。御存じでは?」
気負い込んで尋ねる。
「直接は知らない。だが、父が死に際にその名前を呟いたんだよ。父は朝陽新聞社を再興した最大の功労者でもあるにもかかわらず、役員になるのを固持した。最後まで一人のジャーナリストとしての生き方を貫いたんだ。役員にならなかった代わりに特別待遇を与えられ、古稀を過ぎてまでも会社に残り、記事を書き続けた。
だが、家庭のことは全く顧みない人間でね。そのために母がどれだけ苦労したことか。そんな人間だから、自分のことも一切語ることはなかった。それなのに、その父が臨終の床で涙を流しながら言ったんだよ。ああ、俺はあいつをついに助けてやることができなかったとね。それが、白河安太郎という人のことだったんだ。当時、私はまだ学生で何となくその名前を書き留めていたんだが、それっきりで済ませていた。父に対する反発もあったしね。その私が父と同じ道を歩むことになるんだから、皮肉なものだ。
しかし、本当のところはどうなんだろう。主筆なんて地位について、俺は本当にジャーナリストとしてまっとうな道を歩んできたんだろうかと、近頃切実に思えてきたんだ。おまけに父の死んだ時の歳に近づいてきたものだから、余計にね。そんな時に、ふとその名前を思い出したんだ。
考えてみれば、父のことなんて私はほとんど知らなかった。それで近頃になっていろいろ調べ始めたんだが、これがなかながはかどらないんだ。何しろああいう人だから、自分のことなんてほとんど喋らなかったし、日記類なんかも死ぬ前に自分で焼却してしまってね。
君の言う安太郎さんの手記なんだが、たとえわずかでも父の一端を知ることができるのなら、非常に有難い。貸してもらえるだろうか?」
「はい。もちろん喜んで! 直接お会いしたうえで、お渡しします」
勢い余って、つい大声になる。
「それは有難いね。それで……、いつ会えるかい?」
こちらの勢いに押されたのか、やや引き気味に聞いてくる。
「今日の夕方は、いかがでしようか?」
「今日の夕方だって? 冗談じゃない」
今度は突き放すように言われてしまった。
「これでも私は忙しい身なんだ。君とは違うんだから」
しかし、おれは引き下がらなかった。
「今日どうしてもお会いしたいのです」
向こうは一瞬黙ったが、すぐに聞いてきた。
「何かあったのか?」
おれは、その日起きたことをありのまま話すと、
「主筆のお力を借りることができないかと思いまして」
とストレートに言った。




