四百参拾参 あっしにはかかわりのないことでござんす
──えっ、安太郎さんと約束……ですか?
──そうじゃ。小水女、もとい、湯浴み乙女に呼ばれてお前に会ったあとのことだった。気安くうけあったものの、あの変な契約書だけでは到底、腹を満たすことができない。それで、たまたま二階に上がったら、この素晴らしい蔵書に出会ってのお。早速賞味しようとしたとたん、そこに居合わせた安太郎さんに制止されたんだ。
彼が言うには、これは自分が苦労して集めたものだ。ほかのものだったら何を食っても構わないが、これだけはやめてほしいとな。
そうは言われても、わしもすっかり飢えていた時期でのお。何しろ、謙虚にだの、丁寧な説明だの、来る日も来る日もそんな類の不味い文字にしかありつけなんだ。そんな時にタイミングよくバスガールに呼ばれたというわけなんじゃが。
それでさっきの話に戻るが、安太郎さんがわしを制止して言うには、あの若者なら、つまり、お主ならパソコンで幾らでも文字を書き連ねてくれるだろうから、それなら幾ら食っても構わない、とそう言ってくれたんだ。それがまさか、あんなひどいものを食わされる羽目に陥るとは思わなんだ。
──口が悪いのは相変わらずだなあ。安太郎さんも安太郎さんだ。で、それからどうしたんです?
(おれは、だんだん腹を立てはじめていた)
──まあそれはともかく、約束は約束だ。今日までそれをしっかり守ってきたんじゃが、安太郎さんの書物の中が、素晴らしいごちそうに満ち溢れているのは間違いない。それで、涎を垂らしながら眺めていたんじゃが、そんな時に、突然奴らがドタドタと踏み込んできてのお。
しかもあろうことか、この貴重な書物を片っ端から乱暴に引っ張り出しては、床にぶちまけ始めた。呆れて見ていたら、最後にそのノートに奴らの目がいったわけだ。
こいつは不可いと思った。なにしろ、わしも涎を垂らした分、猛烈に腹が減っていてな、それでとっさに食ってやったというわけなんじゃ。ハッハッハッハ……。
──いや、ハッハッハって、笑いどころじゃないですよ。今のおれにとって、これがどんなに大事なものだったか、あんたには分からないんだ。
(おれはついに怒りのあまり、ノートをトランクの中に乱暴に放り込むと、モンジ老さんを睨み付けた)
──ふん。わしには、関係のないことだ。いいか、錦之助。よく聞くんじゃぞ。お主の書いたものが食あたりを起こすようなものなら、そのノートの中身は、胃に穴があきそうなほど苦痛に満ちたものだった。わしには、到底耐え難い。ゆえに、これからわしがすることは、いっさいお主に関わりのないことじゃ。わかったな?
モンジ老さんはそう言うと、座ったまま壁にもたれ掛かり、顔を天井に向けた。
金本結貴がおれの家で飲み過ぎたあまり、天井に向かって噴水のごとく吐いた時の姿勢と同じである。
果たして、苦しそうに喘ぎ出したと思ったら、そのうち口を大きく開けて、白目を剥いた。
まさかモンジ老さんが、こんな恐ろしい顔をするとは思ってもみなかった。びっくりして見ていると、何やら青いものがざわざわと口から出てきた。
文字だ。文字が 行列を作って 空中を漂いながら、トランクの中に次々と向かっていく。すると、ノートの頁が突風に煽られでもするようにパラパラパラっと激しくめくられていった。しかし、それは瞬時に終る。
おれは急いでノートの中身を確かめてみた。安太郎さんの手記が、ちゃんと元に戻っている。
気がつくとモンジ老さんは、四つん這いになってゼーゼー息を切らしていた。あわてて駆け寄り、その背中に手を置くと、振り払われてしまった。
──放っといてくれ。お主には関わりのないことだ。
──モンジ老さん、ありがとうございます。何と、お礼を言ったらいいのか。
──だから、お主には関わりのないことだと言っておるではないか。あくまでもわしが勝手に食った。その挙げ句に、胃に穴が開いてしまうほどの苦痛に見舞われた。その苦痛に耐えかねて、勝手に吐き出した。ただそれだけのことじゃ。別にお主を助けたくてやったことではないし、感謝されるいわれはもないわ。
ところで、胃袋が空になったら、また腹がすいてしもうた。かと言って、お前の書いたものを食うと、またどんなひどい目に遭わされるか分かったもんじゃない。どこかに漁りにいくとしようかの。では、さらばじや。
──えっ、まさかこれでお別れというわけではないですね?
──ふん、そうしたいのは山々なんじゃが、お前はこれからもあの不味い小説を書いていくんじゃろう? それじゃあ、これからもネットで出会い頭のように、可哀想な犠牲者が出る。わしはそれを防がねばならん。だから、わしの腹具合のいい時には、また来てやることにしよう。じゃあな。
モンジ老さんはそう言うと、本当にドロンと消えてしまった。
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