四百参拾弐 知らなかった約束
すっかり絶望的な気持ちになって、トランクに駆け寄った。ところが、ノートはちゃんとある。
「何だよ、この古くて汚い帳面がどうかしたのか?」
タツユキさんが聞く。
ほっと一安心して、それを手に取った。ところが、何気なくめくってみると何も書かれていない。慌てて次の頁をめくる。やはり何もない。
次の頁も、次の頁も……。ただの一文字もない。
愕然としていると、タツユキさんが重ねて聞く。
「おい、本当にどうしたって言うんだよ?」
「いえ、その……」
おれは返す言葉が見つからず、三本の指を眉間に当てて、ぐるぐると回した。
「あっ、また京子さんと同じ仕草だ」
早苗さんが笑って言う。
すると視界の端に、筵のようなものが見えた。いや、筵を二つ折りにして袋にしたようなものだ。
その袋から、亀のように手足がにょきにょきと出てくる。最後に頭がぴょこんと飛び出した。顔にはまばらな髭と汚いしみ。貧相な爺さんだ。
「モンジ老さん!」
思わず叫んでしまった。
叫んでしまったあと、しまったと思ったが、もう間に合わない。
皆は不思議そうにおれの顔を見たり、互いに顔を見交わしたりしている。
「おい、いったいどうしたって言うんだよ?」
おいさんが、また同じようなことを聞く。
さて困った。皆には当然、モンジ老さんは見えていない。
「あっ、いえ……。文字が散逸して、散々だと」
「何を訳の分からないことを言ってるんだ。お前いま、確かに紋次郎って言ったよな?」
こうなると、昭和のおいさんはなかなかしつこい。
「言った、言った」
皆でおれを追い詰める。
「いえ、その紋次郎さんではなくて……」
「その紋次郎さんではなくて、どの紋次郎さんって言うんだよ。紋次郎さんって言えば、木枯し紋次郎に決まっているじゃないか。──なあ、みんな」
過半数の人たちは、うん、うんと頷いている。早苗さん、登世さん、米さん、それに駐在さんの四人である。
残り三人のうちの一人、誠が爽やかに尋ねた。
「木枯し紋次郎って何ですか?」
英ちゃんとその妻であるさやかさんも、同じように頷く。
「これだから近頃の若い奴らは困るんだよ」
タツユキさんが口走る。
すると、すかさずそれをたしなめるように早苗さんが言った。
「あんた、そんなセリフが若い人たちに一番嫌われるんだからね。現に八十八だって、あんたのそういうところを嫌って、家を飛び出したんじゃないの」
「何、言ってやがんで。それとこれとは話が違うんだよ。──いいか、木枯し紋次郎ってえのはだな、昭和のスーパースターで……」
「そう言えば八十八の奴、元気にしてるんですか? 久しぶりに会いたいなあ」
誠が言う。
「ありがとう。元気で何とかやってるよ。相変わらず馬鹿だけど。誠君が会いたがってたと、今度伝えとくね」
「俺の憧れだったんだ。こう、爪楊枝なんかくわえてさあ、ニヒルに言うんだよ。って、おい、人の話を聞けよ」
「爪楊枝じゃないですよ。長い楊枝です」
駐在さんが訂正する。
「おや、チューイングガムをクチャクチャ嚙んでたんじゃなかったかい?」
と米さん。
「違いますよ。それじゃあ、てんで様にならない」
おれは彼らのことは放っといて、モンジ老さんと密かに念の交換をしながら話をした。
──モンジ老さん、ひょっとしてこのノートはあなたの仕業ですか?
──仕業とは何だ、仕業とは? 子供のイタズラ扱いするでない。それに何じゃ、皆で寄ってたかってわしを無視しおって。
──いや、皆さんには見えないんだから、仕方ないじゃないですか。それより、僕の質問に答えてください。
──ふん、口の利き方だけはまともになったと見える。だが、やはりわしを愚弄しておるな?
──えっ?
──わしらのことを役立たずだと思ったであろう?
──あっ?
──何だお主は。あっ、だの、えっ、だの、語彙の少い奴。あれほど自分の爺様から、あやかしの力を借りては不可いと言われていたにもかかわらず、わしらを能無し扱いするのはおかしくないか?
──確かにそうでした。それを言われると、弁解のしようがありません。お恥ずかしい限りです。
──ふん、そう素直に出られると、逆にわしも困ってしまう。では、答えてやるとするか。確かにあれは、わしが食った。
(モンジ老さんはそこまで言うと、粗末な筵でできた着物の胸の辺りを叩きながら、いつもの謳い文句を始めた)
──わしは衣食住の全てにおいて満たされておる。ほれ、これがわしの着物でもあり、寝床でもあり、棲処でもある。そして、食は文字さえあれば足りる。しかも、世界に決して尽きることがない。
ところで、ここは見てのとおり、古今東西の素晴らしい書物に満ち満ちておる。わしの大好物ばかりなんじゃが、あいにく安太郎さんと約束をしてしまったものでな。
──えっ、安太郎さんと約束……ですか?
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