四百参拾壱 蜘蛛の糸
「ハハハ……」
それまで成行きを黙って見守っていた化野零児が笑いだした。
「これだから、この世の人間は面白い。馬鹿だのタワケだの、或いは逆にクソババアだの毒親だの罵り合いながら、本当は互いに相手のことを一番心配している」
「何だよ、お前まだ居たのか? とっとと消え失せろ」
タツユキさんが、早速噛みつく。
しかし、当人は全く意に介さない様子。
「ぶっ殺したいほど憎んでいるのに、恩人だ。それどころか尊敬さえしている。ことほどさように、この世の人間どもは一筋縄では行かない。それに比べて、あの世の人間は単純だ。お恨み申し上げますと言えば、本当にそれだけでね。ただその一念だけで、この世に現れる。単純なだけに、対処はしやすい。
だが、今あんたらが戦おうとしている相手は別格だ。何しろ、過去に切り捨てられた人間どもの怨みが、何世代にもわたって積もりに積もったやつですからなあ。それだけにその怒りも根深い。深海の底の岩盤みてえな所に割れ目があって、そこにしっかりとアンカーが引っ掛かっているんですな。つまり、錨ですな。こいつを取り除くことは容易じゃない。いやはや、これは大変ですぜ」
「あんた、何が言いたいんだよ? 気色の悪い奴め」
「そうですかい?」
化野はそう言うと、何気なく眼鏡に手を掛けた。
やめろ!
思わず叫びそうになった。
奴の目玉は眼鏡にくっついている。眼鏡を取ったら、眉毛の下は、つるんとして何もない。これ以上、この人たちを混乱させないでほしい……。
化野はおれを一瞥すると、ふふんと鼻を鳴らして、眼鏡から手を話した。
「あっしらから見れば、あんたがたのほうが、よほど気色悪いですがね。へへへ……。まあ、そんなことはどうでもいいや。あっしの商売は、この世とあの世の橋渡し。ご用命がございましたら、いつでもご相談に応じますよ。──それでは、ごめんなすって」
皆の間を抜けて、悠々と出てゆく。
「ふう」
「やれやれ」
口々に声が漏れる。
すると、英ちゃんが言った。
「いや、やれやれなんて言っていどころじゃないですよ。これからなんだから」
「そうだよ」
誠が直ぐに相槌を打つ。
「欽之助、俺たちは何をすればいい?」
おれは頷くと、一同に向かって言った。
「実は外に出掛けて、ちょっと当たってみたい人が居るんです。ところが、秘書がまだ二人も残って見張ってますからね。皆さんには、僕がここを抜け出せるよう手助けをしてほしいのです」
「よし、任せてくれ」誠が答える。
「お安い御用だ」と英ちゃんも言う。
「合点承知之助!」
もちろん、昭和のおいさんだ。
「大丈夫ですか? 彼らは恐らく、腕っぷしが強いですよ。中野のボディガードを兼ねてますからね」
「ガハハ」
とたんに昭和のおいさんが、嬉しそうに笑い声をあげる。
「俺たちを何だと思ってるんだ。なあ、みんな。こいつは久し振りに腕が鳴るぜ」
逆に心配になった。
「あっ、でもあまり最初から手荒な真似は……」
「そうですぞ。法律に触れるようなことをしたら、本官が直ぐに現行犯逮捕しますからな」
駐在さんが言う。
「ちぇっ。今頃しゃしゃり出てきて、何だよ、お前は……。白けるなあ、もう。──そうだ、この邪魔者から先に片付けちまおうぜ」
「はーい」
「それっ」
「あっ、何をする。本官を舐めるんじゃない。公務執行妨害で逮捕するぞ。こ、こら! 誰だ、変なとこをくすぐるのは?」
たまらず、ピーッと警笛を鳴らす。
市民と警察官がじゃれ合っている。日本はいい国だ。警察官どころか、防衛軍が治安維持のために市民に発砲するような時代が、まかり間違っても永久に来ませんように。太宰治の願ったように、小さくてもいいから、いつまでも平和で美しい日本でありますように……。
おれがそんなことを思っていると、早苗さんが言った。
「私たちが何とかして、あの人たちの気を引きましょう」
「どうやって?」
と、おれは聞いた。
「私が色仕掛けで」
米さんが、変な品を作りながら言う。
「おっ、いいね。Sexy gesture!」
登世さんも、ポーズを取る。
「婆ちゃん……。それに登世さんまで……」
誠が呆れてしまって、思わず駐在さんをくすぐっていた手を止める。
「お茶でも出してあげたら、どうでしょう」
「うん、それがいい。欽ちゃん、お茶うけはあるかい?」
「はい。ちょうど米さんからいただいたばかりの漬け物が」
「よし、それでいこう」
「少し待ってもらえますか? その前に用意するものが……。あっ、──」
おれは急いで、安太郎さんが書斎として使っていた洋間に駆け込んだ。
彼らは、おれの家の中を勝手にあちこち引っ掻き回している。もし、あれを持っていかれでもしていたら、川辺一谷に会うための手づるがなくなってしまう。
川辺は中野十一とは宿敵でもあり、盟友のような関係でもあった。新聞社の主筆とやり手の国会議員。両者は、刀の刃渡りのようなギリギリスレスレのところで情報をやり取りするような緊張関係に互いにあったのである。
川辺さんなら、何かを知っているかもしれない。そのわずかな可能性を求めて、おれは彼に会おうと考えたのだった。その唯一の手づるが、安太郎さんの手記だったのである。
ところがおれは、それを彼のトランクに入れたままにしていた。もともとその中にあった物だから、そうしておいたほうがいいという気がしたのだった。
行ってみると、果たしてトランクは無造作に開け放されたまま、床に放置されている。辺りには、安太郎さんの大切な蔵書も散乱していた。
この作品はフィクションであり、実在する人物、団体等とはいっさい関係がありません。




