四百弍拾参 復讐の流儀
「さて、私はこれで失礼します」
中野は立ち上がって、皆に一礼した。
「ただし、この屋敷はもう少し調べさせていただきます。秘書は二人ほど残しますので、もし何かありましたら、遠慮なくお申し付けください。それでは──」
そう言うと、おれに目もくれずにそばを通り抜けようとする。秘書もつき従っていったが、一人は本当に掛け軸を手にしていた。
「あっ、そうだ」
最後に、早苗さんに話しかける。
「あなたのお家で作った餅を一度食べてみたかったが、もうその機会はないかもしれないね。どうぞ、お元気で」
そう言うと、階段の手摺に手を掛けた。
「先生──」
その背中に向かって、おれは精一杯の侮蔑を込めて呼びかけた。
中野が振り返る。その眼が血走っている。おれは構わずに尋ねた。
「片桐さんは、今日はどうしているんですか?」
「片桐だと?」
中野は真っ直ぐに立って、おれを見つめた。こちらも負けずに、見つめ返す。
「そうか、君は彼のことを気にいっていたようだからな。だが、彼にはもう辞めてもらったよ。私もこういうことになって、そんなに大勢の秘書を抱えているわけにはいかないしね。それに、私は知らなかったんだが、随分手荒なこともしていたらしい。君もやられた覚えがあるんじゃないのか?
これ以上のスキャンダルは、それこそ私の政治生命を絶ってしまいかねないからな。ところがどっこい、私はこのまま世に埋もれるつもりはないんだ。次の衆院選で復活して、日本の将来のために必ず二大政党制を実現する。そのことに、私は命を賭けてきたんだから」
「いつですか?」
「何がだ?」
「だから、彼をクビにしたのはいつかって聞いてるんですよ」
「はて、もう一ヶ月ぐらいにはなるかな……。待てよ、ひょっとして京子のことで奴を疑っているのか? 私を恨んでのことだと? 馬鹿な! 彼にはそれなりに感謝していたし、矢部のとっつあんと同じように十分報いたつもりだ。本人さえその気なら、それで一旗揚げられるぐらいの報奨金を渡したんだ。彼なら、十分その気概も才覚もある。君とは大違いだよ。余計な詮索をするんじゃない」
「彼はあなたに心酔していました。だからこそ、自分は汚れ役や危険な仕事を引き受けるんだと言ってました。あなたも本当は分かっていたんじゃないですか?
世の中、綺麗ごとだけじゃ済まされない。必要とあらば権謀術数の限りを尽くす……。これは、あなたが僕に仰ったことですよね?」
そこまで言うと、おれは早苗さんを振り返った。
「それに、この人には確かこんなことも言ったはずだ。政治家というものは、国民のために何もしない善い人よりも、国民のためにいいことをする悪い人のほうがましだと」
早苗さんが頷いているのを横目で確認しながら、おれは続けた。
「そんなあなたが、裏で片桐さんのやっていたことを知らないはずがない。利用するだけ利用して、最後は切り捨てたんだ。これじゃあまさに、トカゲの尻尾切りじゃないですか。矢部さんだってそうだ。闇献金も本当はあなたがしたことなのに、彼のせいにした挙げ句に切って捨てたんだ」
「君ごときブンヤ崩れの小説家まだきに、何が分かるもんか」
「僕のことなんて、どうだっていいですよ。念の為に確認だけでもしてみたらいかがですか? いや、すぐにでも片桐に当たって見るべきだ。彼とはもう連絡はとれないんですか? いや、待ってください!」
以前、彼が語ったことをおれは思い出していた。目的のためなら手段は選ばない。必要なら、人殺しだって厭わないと。
裏切った人間には復讐する。だが、簡単にはすまさない。相手に直接手を下すのはたやすいし、生ぬるい。その前に、そいつの一番愛しているものに、まず手を掛ける。じっくりなぶるように。そして最後の最後に本人に手を下す、と。
もし、京子の失踪に彼が関係しているなら、彼女が危ない。だからといって、こちらが気付いたことを察知すれば、ただちに手を下すかもしれない。
だが、どうなんだろう……? 彼女に連絡が取れなくなって二週間。その間、中野は父親として心配でたまらなかったはずである。現にこうやっておれのもとにまでやってきて、散々おろかな真似をしている。それほど精神的に追い詰められているということなんだろう。
もし、片桐の仕業であるなら、そこまでは十分、計算のうちであるに違いない。しかし、それで目的が達せられたとして、すぐに彼女を死なせてしまうだろうか。彼のあの時の口振りからすれは、それだけではまだ物足りないはずである。
奴は、じっくりなぶるように、と言っていた。それは、必ずしも手にかけられている当人のことだけではなくて、目指す仇本人に対して言っているのではなかったか?
もしそのように片桐が復讐を企んで京子を誘拐したとすれば、今度は中野に連絡するはずである。お前の娘を殺してやると。そうやって一気に奈落の底に突き落とすのだ。
しかし、それだけでは終わらない。娘を助けてくれと、中野に懇願させる。土下座したり、泣きわめいたりするのをあざ笑う。そうやって焦らしたり、いたぶったりしながら、徹底的に地獄の責め苦を味わさせたうえで、最後にとどめを刺すのだ、親子ともども──。
だとすれば、京子はまだ生きている。迂闊に動くのは危険だ……。
だが、待てよ。そもそもそこまでは考えすぎではないだろうか。全てはおれの妄想かもしれぬ。いくら片桐でも、本当にそこまでやるだろうか?
京子はそんなことには全く無関係で、今頃はどこかで呑気に旅行でもしている可能性だってある。もしかしたら、父親に反発してわざとそうしているだけなのかもしれない。
いや、それも違う。彼女は聡明で、それに父親を愛している。そんな父親を、いたずらに心配をさせるような真似はしないはずである。
おれはそうやって、頭の中でいろいろ考えを巡らせながら、さっきから中野と睨み合っていた。すると、向こうはふとおれから目を逸らした。秘書に目配せをする。二人がそれぞれスマホを手にする。
しばらくして、二人とも首を振った。
「駄目です。電話番号が変えられています」
「メールもです」
「住所は?」
すかさずおれは言った。
「マンションを知っている。直ぐに行こう」
中野が言った。秘書たちとともに慌ただしく階段を降りていく。




