四百弐拾弐 行方も知らぬ恋の道かな
中野の顔はみるみる蒼白になった。内心の動揺をかくすように、再びソファに腰を沈める。足を組むと、登世さんに向かって無理に笑顔を作った。
「ククク……。あなたもよくわかっていらっしゃるじゃありませんか。それなのに、仰ることが矛盾していませんか? だって、この男と知り合ったからこそ、娘の不幸が始まったんですからね」
そう言うと、鋭い視線をおれに放ってきた。
「ごまかすんじゃない! うぬは本当のことを分かっているはずじゃ」
登世さんが食い下がる。もう、「うぬ」からは昇格できないようだ。
「いや、分かりませんね。いいですか? この男は皆さんもご存知のように、小説家志望なんですぞ。だが、小説家なんてものは貧乏で肺病やみのくせして、酒飲みで女癖が悪いときている。そのうえ、女には暴力を振るうと、昔から相場が決まってますからね。
それなのにこの男ときたら、まだその小説家でもない。小説を書くことで、びた一文だって稼げてないんですからね。私の秘書に言わせれば、小説家もどきでもなく、小説家まだきなんだそうです。それも、永遠にまだきだ。そんな男と結婚したら、不幸せになるに決まっているじゃありませんか。バカにでも分かる理屈ですよ」
中野の小説家に対するイメージは、ある男への軽侮と恨みで凝り固められたものだ。亡くなった奥さんが、結婚前に愛していた男である。したがって、このイメージが覆ることは決してないだろう。
「ほお、最後は私が言ったことをそのまま返してきたか? いい歳をして子供っぽい奴。京子さんの父上だと思って、これでも手加減してきたつもりだが、これ以上、うぬと話しても仕方がない。もう勝手にするがよかろう」
「望むところですよ。さて、これ以上ここに居ても大した収穫はなさそうだから、私めはここらで退散して、ほかを当たることといたしましょう」
もう一度おれのほうに、鋭い一瞥をくれる。
「これで君の疑いが晴れたわけでは、決してないからな。本当は、君のパソコンとスマホを預かりたいところだが、まあそれは止すことにしよう。
その代わりと言ってはなんだが、この掛け軸だけは持っていく。こいつは『老子騎牛図』と見たが、違うかい? 古備前と文机はガラクタだが、これだけは別物だ。大した価値はなさそうだが、うーん、何だろう……? 何故かは分からないが、この掛け軸には魂みたいなものが感じられるんだな。それだけ君にとって大切な物なんだろう? 一種の人質だと思っていい。むろん、娘が無事に帰ってくれさえすれば、返すことにしよう。それでいいかな?」
「それは困ります。何を勝手なことを──」
おれは慌てて答えた。
あの中には、爺ちゃんが居るのだから……。
「それならパソコンだろうが、スマホだろうが、どうぞ持っていってください。あなたにとっては価値はないかもしれないが、私にとってはその掛け軸だけでなく、古備前も文机も含めて、全てが何ものにも替えがたい大切な物ですから」
「私にとっては、娘が何ものにも替えがたい宝なんだ。だから、娘と引き換えに返すと言ってるじゃないか」
「ふざけるな!」
おれは、つい声を荒げてしまった。
「それじゃあ、いかにも僕が京子さんを誘拐して、どこかに監禁でもしているみたいじゃないですか」
すると、掛け軸の中から声が聞こえた。
──欽之助!
おれははっとして、それとなく周囲を窺った。もちろん誰にも聞こえていないようである。中野はおれを無視して、自分の携帯を当たり始めた。
爺ちゃん、どうしてだ? どうして今まで知らん顔してたんだよ? それにほかの妖怪たちもだ。よりによってこんな時に皆意気地のないことと言ったら……。
おれは、そっと念を送りながら文句を言った。
──いやあ、済まん、すまん。だが、この男だけは、わしらの手には負えない。それほどこの男の背後には、深い闇が広がっているということなんじゃ。それに、さっきこそ、この男が自分で言っておったじゃないか。人間に比べたら、妖怪なんぞ可愛いもんじゃと。
じゃあ、おれはどうしたら……?
──好きにさせておくさ。
えっ、だって爺ちゃん、人質に取られるんだぞ。それでもいいのか?
──構わぬ。そこに私は居ません、ってな。いや、わしばかりでなく、京子さんもだな。果たして彼女はどこにいるのか? お前の恋の道は、かじを失ってしまった舟人のようじゃ。千の風に風任せ、千の波に波任せ、それゆーらゆーら、えんやらさー。おっとどっこい、このわしは、牛の背任せでぶーらぶらって奴でな。ホッホッホッホ……。どれ、ちょっとどこかで逍遥してくることにしようかの。
だが、その前にもう一度言っておく。お前には不思議なものが見えたり、何かを引き寄せたりする能力はあるが、しょせんそこまでじゃ。だから決して妖かしの力などに頼るではないぞ。それと、小さい頃からお前に言い聞かせてやったことを、よく覚えておくんじゃ。分かったな。では、さらばじゃ。また会おうぞ。
いや、待ってよ。どうしていつも肝心な時に、そうやって居なくなってしまうんだ。おれを助けてくれよ……。
しかし、掛け軸からはもう何も反応がなかった。
「ああ、私だ」
代わりに聞こえてきたのは、携帯を耳に当てる中野の声だった。
「例の場所を調べてるんだがね、今のところ何も手掛かりらしきものが出てこないんだ。やはり、正式に警察に捜査を依頼するよ。……うん、頼んだからね。では──」
電話を切ると、立ち上がった。
「というわけで、皆さんにも捜査への協力をお願いします。どんなことでもいいですから、何か気づいたようなことがあったら、警察か私にご連絡ください。このとおりです」
そう言って、深々と頭を下げる。
すると、秘書たちが中野のものらしい名刺を配り始めた。
「ええい、こんなものは要らぬわ。トカゲのしっぽどもめ」
登世さんが、秘書の手を払いのける。
トカゲのしっぽだって……?
頭の中で一瞬、何かがひらめく。
おれが子供の頃に、爺ちゃんが芝生の手入れをしながら言った言葉が、ふいに蘇ってきたのだ。
地を這うものは強い……。
あれは確か、雑草のカタバミのことだった。いや違う。カタバミを抜きながら、何か別のものについて、爺ちゃんは話してくれたのだった。
あれは確か……?
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