四百弐拾壱 鏡の子
「フフフ……。それで?」
中野はソファにもたれたまま、いかにも可笑しそうにニヤニヤ笑っている。
「このたわけ者!」
登世さんはその様子を見て、いきなり杖を振り上げた。秘書たちが、中野を庇うようにさっと立ちはだかる。
登世さんは、左右から寅さんとタツユキさんが止めようとするにも構わず、杖をぶんぶん振り回しながら言った。
「そなたは苟も政治に携わる者であろう? そのようにソファに座ったままふんぞり返ってはいるが、底が知れておるわ。我々を愚民だと馬鹿にしておるな」
それを聞いた相手は、ハッとしたように立ち上がった。
「これは、誠に私が迂闊でした。お婆さんの仰るとおりです。このとおり謝ります」
そう言って頭を下げているところに、さらに罵声を浴びせられる。
「誰がお婆さんだ、このタワケ! そなたと私とでは、一回りほどしか歳が離れておるまい」
彼女にかかっては、おれや寅さんどころか、元大物の国会議員までもがタワケ者扱いである。
中野は秘書たちと顔を見合わせながら、大いに恐縮している様子。
しかし、登世さんは怒りに任せて、さらにまくしたてた。
「いいか、我が母は千見子と申してだな、いちどきに千の事柄を見通すことができたんじゃ。そなたは一を聞いて十を知ることのできる人間らしいが、たかが知れておるわ。しかも、聞いて驚くんじゃないぞ。我が母千見子は、かの奴国の王族の血を引いておって、卑弥呼や臺與とも血がつながっておるんじゃ。──ふふん、少しは恐れ入ったと見えるの」
満足そうにそう言うと、杖でおれのほうを指しながら再び続ける。
「良いか、たいして役にも立たぬその耳の穴をかっぽじって、よーく聞きやれ! この者は皆が申すとおりどうしようもない男ではあるが、旺陽女様と結ばれる定めなのじゃ。それに真剣に愛し合ってもいる。それなのに、どうしてこの者にあの方を手にかけたりできようぞ? バカでもこの理屈は理解できるぞ」
ヒー! お願いだから、もうこれ以上はやめてくれ! 話がますますややこしくなるから……。
おれはハラハラしながら、登世さんに向かって必死に念を送った。
中野は、にわかに表情を強張らせた。
「さっきも何か妙なことを仰っていたようですが、それでそのおうひめ様というのは、つまり……?」
中野が用心深そうにそう聞くと、登世さんは、
「そなたの御息女に決まっておるわ」
と、事も無げに答えた。
「一体どういうことなのか、私にはとんと理解しかねますが?」
「ええい、分からない奴!」
登世さんは地団駄を踏む。
「そなたは一を聞いて十を知るどころか、何一つ理解できない痴れ者じゃ。
良いか、この地には印鑰神社という由緒正しきお宮があってだな。ところが、ある事情でこの地全体が祟られてしまったんじゃ。宮は寂れ、村中で作物が取れなくなったりで、この地はすっかり荒廃してしまった。
ところが、我が家には言い伝えがあっての。その昔、御先祖様が罪を得て、この地に流された。その時に、伊勢木の苗字を賜るとともに御託宣を授かったんじゃ。千年の後に、見目麗しき乙女現る。宮を再興し、この地を繁栄に導かん。その人こそ、斎宮の後裔、旺陽女様なり。その暁まで、この宮をしかとお守りせよとな」
と、前に聞いたこととほとんど一字一句違わないことを言った。
この様子では、これまで誰彼構わず相手にしながら、同じことを言い続けてきたのであろう。
最後に登世さんは、とどめを刺すように言った。
「つまり、旺陽女様とは、そなたの御息女にあらせられるというわけだ」
おれがどれだけ必死に念を送っても、この婆さんにだけは通じないらしい。
「ハハハ」
中野は天井を向いて、大きく笑った。
「伊勢木登世さんと仰いましたかな? 失礼ながら、私は現実主義者でしてね。そのような絵空事は、いっさい信じないたちなんです」
「ほほお。では、これならどうじゃな? そなたは、京子さんの『きょう』を鏡と書いて、出生届をするよう、奥方から言われていたはず。それを、うぬがそそっかしいばかりに、奥方を失望させてしまったんじゃ」
とうとう「そなた」から「うぬ」に格下げである。このおれに対しても似たような扱いであるが、登世さんが相手を見て態度を変えないことが分かって、おれは大いに彼女を見直したのであった。
中野は少し驚いたような顔をしていたが、直ぐに気づいたように言った。
「娘からお聞きになったんでしょう? いつの間にか皆さんの知遇を得たばかりか、慕われてもいるようですからな。娘は聡いうえに思いやりもある。たぶん、あなたからそんなたわごとを聞いたとしても、一笑に付してがっかりさせるような真似はしない。それに姫様などとおだてられては、本人だって悪い気はしないでしょうからな」
「ふん、そう返してくるだろうと、最初からお見通しであったわ。だが、さっきの話は不十分であった。奥方は、こう言ってなかったかな?
夢枕に卑弥呼が現れ、御神鏡の一字を取って『鏡子』と名付けるようお告げがあったと。そうすれば、この子はあらゆる災厄を免れ、幸せな生涯を送れるとな。ところが、うぬが間違えたばかりに、お嬢様はある不幸を背負うことになったんじゃ」
この作品はフィクションであり、実在する人物、団体等とは、いっさい関係がありません。




